------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ 例 黒須《くろす》 太一《たいち》 【読み進めるにあたって】 ストーリーは 1,「CROSS†CHANNEL」からはじまります。 順番はこの下にある【File】を参照のこと。 このファイルは CROSS†CHANNEL  2,「崩壊」 です。 ------------------------------------------------------- FlyingShine CROSS†CHANNEL 【Story】 夏。 学院の長い夏休み。 崩壊しかかった放送部の面々は、 個々のレベルにおいても崩れかかっていた。 初夏の合宿から戻ってきて以来、 部員たちの結束はバラバラで。 今や、まともに部活に参加しているのはただ一人という有様。 主人公は、放送部の一員。 夏休みで閑散とした学校、 ぽつぽつと姿を見せる仲間たちと、主人公は触れあっていく。 屋上に行けば、部長の宮澄見里が、 大きな放送アンテナを組み立てている。 一人で。 それは夏休みの放送部としての『部活』であったし、 完成させてラジオ放送することが課題にもなっていた。 以前は皆で携わっていた。一同が結束していた去年の夏。 今や、参加しているのは一名。 そんな二人を冷たく見つめるかつての仲間たち。 ともなって巻き起こる様々な対立。 そして和解。 バラバラだった部員たちの心は、少しずつ寄り添っていく。 そして夏休み最後の日、送信装置は完成する——— 装置はメッセージを乗せて、世界へと——— 【Character】 黒須《くろす》 太一《たいち》 主人公。放送部部員。 言葉遊び大好きなお調子者。のんき。意外とナイーブ。人並みにエロ大王でセクハラ大王。もの凄い美形だが、自分では不細工の極地だと思いこんでいる。容姿についてコンプレックスを持っていて、本気で落ち込んだりする。 支倉《はせくら》 曜子《ようこ》 太一の姉的存在(自称)で婚約者(自称)で一心同体(自称)。 超人的な万能人間。成績・運動能力・その他各種技能に精通している。性格は冷たく苛烈でわりとお茶目。ただしそれは行動のみで、言動や態度は気弱な少女そのもの。 滅多に人前に姿を見せない。太一のピンチになるとどこからともなく姿を見せる。 宮澄《みやすみ》 見里《みさと》 放送部部長。みみみ先輩と呼ばれると嫌がる人。けどみみ先輩はOK(意味不明)。 穏和。年下でも、のんびりとした敬語で話す。 しっかりしているようで、抜けている。柔和で、柔弱。 佐倉《さくら》 霧《きり》 放送部部員。 中性的な少女。 大人しく無口。引っ込み思案で、人見知りをする。 でも口を開けばはきはき喋るし、敵には苛烈な言葉を吐く。 凛々しく見えるが、じつは相方の山辺美希より傷つきやすい。 イノセンス万歳。 桐原《きりはら》 冬子《とうこ》 太一のクラスメイト。放送部幽霊部員。 甘やかされて育ったお嬢様。 自覚的に高飛車。品格重視で冷笑的。それを実戦する程度には、頭はまわる。 ただ太一と出会ってからは、ペースを乱されまくり。 山辺《やまのべ》 美希《みき》 放送部部員。 佐倉霧の相方。二人あわせてFLOWERS(お花ちゃんたち)と呼ばれる。 無邪気で明るい。笑顔。優等生。何にもまさってのーてんき。 太一とは良い友人同士という感じ。 堂島《どうじま》 遊紗《ゆさ》 太一の近所に住んでいた少女。 群青学院に通う。 太一に仄かな恋心を抱くが内気なので告白は諦めていたところに、先方から熱っぽいアプローチが続いてもしかしたらいけるかもという期待に浮かれて心穏やかでない日々を過ごす少女。 利発で成績は良いが、運動が苦手。 母親が、群青学院の学食に勤務している。肝っ玉母さん(100キログラム)。 桜庭《さくらば》 浩《ひろし》 太一のクラスメイト。放送部部員。 金髪の跳ね髪で、いかにも遊び人風。だが性格は温厚。 金持ちのお坊ちゃんで、甘やかされて育った。そのため常識に欠けていて破天荒な行動を取ることが多い。が、悪意はない。 闘争心と協調性が著しく欠如しており、散逸的な行動……特に突発的な放浪癖などが見られる。 島《しま》 友貴《ともき》 太一の同学年。 元バスケ部。放送部部員。 実直な少年で、性格も穏やか。 激可愛い彼女がいる。太一たち三人で、卒業風俗に行く約束をしているので、まだ童貞。友情大切。 無自覚に辛辣。 【File】 CROSS†CHANNEL  1,「CROSS†CHANNEL」  2,「崩壊」 CROSS POINT  1,「CROSS POINT(1周目)」  2,「CROSS POINT(2周目)」  3,「CROSS POINT(3周目)」 たった一つのもの  1,「たった一つのもの(1周目)」  2,「たった一つのもの(2週目)」  3,「たった一つのもの(大切な人)」  4,「たった一つのもの(いつか、わたし)」  5,「たった一つのもの(親友)」  6,「たった一つのもの(謝りに)」  7,「たった一つのもの(Disintegration)」  8,「たった一つのもの(弱虫)」 黒須ちゃん†寝る  1,「CROSS×CHANNEL(ラスト前)」  2,「黒須ちゃん†寝る」 ------------------------------------------------------- CROSS†CHANNEL 2,「崩壊」 放送部の合宿だった。 俺たち一年生が進級し、幸せな三年生が引退して。 新しい一年生が入ってきて。 新たな面子は七人で。 でも本当は八人で。 7/8ならまあOKか、と俺は思っていた。 彼女は……どうせ呼べばすぐにやってくる。 7人集めるのに。 支払った代価は安くない。 そりゃもう大騒ぎさ。 一因として、教員が参加しなかったことがある。 なぜならこれプライベートな部活動だったからだ。 学院には内緒のオチャメ。 公になれば、ちょっとした騒ぎになる。 けど平気だと思った。 ……………………。 そうして、合宿が終わり。 七人は帰路に着いた。 途中で日が暮れた。 ひどく長い時間、歩いていた気がする。 何時間も。 普段は一時間もかからない道だ。 疲労のせいか。 誰も何も言わなかった。 七つの足音だけの世界だった。 異様に静かな山道。 虫の音さえも耳に届かない。 空気までも冷たく感じさせる。 夏だというのに。 暗くても、見えたから。 道が見えたから。 俺は昔から夜目がきいた。 道を間違えたのかなと思い出した頃、町に出た。 人類は滅亡していた。 CROSS†CHANNEL 太一「はいはいはいはい!」 勢いよく家を飛び出した。 扉の内側でスタンバッてパワーをたくわえていた甲斐があり、上々の上方っぷり。 太一「はいどーも!」 いつもだったら、ここで羞恥プレイ。 通勤途中のサラリーマン。 小粋な学生さん。 集団登校中の玄孫ギャルたち。 そんな人々の、なま温かい視線が俺を優しく包みあげるというのに。 誰もいない。 太一「……ふう」 やっぱり、夢ではなかったらしい。 太一「んー」 いや。 まだまだ決まったわけではない。 そんなアナタ。 太一「ププッ」 口を押さえる。 人類滅亡だなんて! 太一「うぷぷぷっ、ぷぷっ!」 たいへん笑えた。 今時、人類滅亡ネタはないだろう。 21世紀ですよ? 陳腐すぎますよ。 不沈艦日本は沈没しても日本列島は沈没しませんよ。 太一「さてと」 ひとしきり笑うと、急に冷静になった。 周囲に人がいないのに騒いでも虚しいだけだ。 太一「そうだ、遊紗ちゃんに会っていこう」 近所に住む激プリティ小娘の顔を見ずして、一日ははじまらない。 堂島家に訪れる。近い。 太一「遊紗ちゃーん、おーい!」 ノックをするが、反応はない。 太一「いませんかー!」 そうだ、ドアホン。 テレビ機能つきのセキュリティ内蔵ドアホンだ。 押す。 音がしない。 太一「……あ、そうか」 電気が止まっているのだった。 テレビも。 電話も。 掃除機も冷蔵庫も。 何もかも。 ドアを叩く。 太一「お義母様ー?」 太一「ゆさゆさー!」 太一「お嬢さんをいただきにきましたー!」 太一「ママンー……」 太一「ゆ……さ……」 叩きつけた拳が、ほつれて落ちた。 太一「うーむ」 吉田さんの家に行く。 太一「がうっ!」 猛犬コンバットがいるはずだった。 しかし。 太一「……」 犬小屋はカラだった。 太一「犬まで?」 そういえば、一匹の猫も見ていない。 太一「うーんうーん」 太一「整合性のある夢だなあ」 夢なら夢でも構わなかった。 太一「学校行くか」 一ヶ月半ぶりの通学である。 見あげれば、いい天気。 通学日和。 通勤快楽。 白い前髪が、陽光を濾しつつまぶたにかかる。 太一「切っておきたかったなー……」 鬱陶しい。 色のせいもあるけど、あまり自分の髪は好きじゃない。 太一「はー」 前髪をいじりながら坂だらけの通学路、通称『通学坂』に出た。 てくてく歩く。 その瞬間。 七香「きゃーーーーーーーーーっ!?」 なんだ!? ドカーン! ドカーン! 七香「きゃわわわわわわわわわわわわわっ!!」 太一「うぉるるるるるるるるるるるるるっ!?」 俺は卍みたいな形になって回転した。 七香「ブレーキブレーキ!」 太一「ぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅん!!」 そのままプロペラと化して地面に叩きつけられる。 太一「ぐああああ……」 七香「あーっ、ごっめーん!」 太一「おぶおぶおぶおぶ」 コミック力場!? ※コミック力場=太一科学。スカラー電磁学やエーテル宇宙論、昇騰機関などと並ぶ超科学理論のひとつ。あらゆる物理現象を加速すると同時に緩和する。 結果、通常物理では考えられないコミック本めいた効果を発生させる。統計的に勝ち気幼なじみ的パーソナリティに多く付随し、そのキャラ性を維持するために作用する。 太一「殺す気か!!」 七香「ごめん〜!」 少女は手を合わせた。 太一「この処女が」 ペッと吐き捨てる。 七香「うひ」 太一「おまえにメッサーシュミットに賭けた人々の熱意が理解できるものか」 七香「理解できなくていいんで……」 太一「人をプロペラみたいに回転させやがって」 ホコリを払い落とし、学校に向かう。 七香「あ、まってよー」 追いかけてくる。 並んで、自転車に飛び乗る。 七香「よっと」 ゆるゆる併走。 しかし、この処女……。 七香「うん。今回も落ち着いていて結構結構」 太一「……え?」 七香「太一は偉いなあ」 太一「……は?」 危険な人? DANGEROUS? ……俺もか。 つうか、俺たち全員か。 太一「わはは」 七香「?」 太一「……ったく」 笑えん。 しかしこの処女は何者だ? どう見ても——— 少女「よっと」 軽くウイリーなどしてみせる。 太一「っ!!??」 パンツがっ!? 思考が中断される。 突発的なエロイベントに、俺は弱い。 ついでに直前の一時記憶もキレイサッパリ抹消される。 なんて脳だ。 まあいいか。 七香「いやー、暑いねえ」 太一「夏だからな」 七香「新学期、月曜日、新しい出会い、別れ」 七香「そして祠」 太一「はい?」 ほこら? 七香「このシーンが終わったら祠に行く選択肢が出るように」 太一「出ないぞ、そんな選択肢は」 七香「つれねぇー」 泣きそうだった。 太一「どうしてあんな山まで行かないといかんのよ。学校あるしさ」 七香「学校って、人いないじゃん」 太一「そんなことはない」 冷静に言う。 太一「これは夢だから学校に行ったらちゃんとみんないるんだ」 七香「いや、人類滅亡してますし」 太一「うそだーーーーーーーーーっ!!」 七香「いや、実際そうですし」 太一「聞こえない! そんなSF小説みたいな話は聞こえない!」 七香「SF小説ねぇ」 太一「はいはい、その話はおしまい!」 七香「……毎回毎回、違う精神状態なんだよね、太一は」 太一「毎回とは?」 処女は大きくため息をついた。 七香「妙に平然としているかと思えば、現実を拒絶してたり」 七香「でも特定の傾向だけに固着してないってことは、強さかもしれない……」 胸ぐらをつかまれる(自転車に乗りながら)(器用)。 七香「だから毎回あたしは苦労してるんだよー!」 がくがくがくっ 太一「あうあうあうっ」 七香「祠行けよ、行ってくれよ!」 太一「ノーモア、ノーモア暴力!」 七香「祠行くか?」 太一「行く、行きます!」 苦しい……死ぬる。 七香「絶対か?」 こくこくと頷く。 七香「よかろう」 解放される。 太一「ぜーはぜーは」 逆らわない方が良さそうだ。 太一「けどどうして祠……」 七香「いや、あの一帯ってさ、神様がいるんだよね」 二人はしばし見つめあった。 そして突然同時に。 太一「わははははは」 七香「あははははは」 太一「わはははははははははは」 七香「あはははははははははは」 七香「もんのすごい御利益があるわけさ」 太一「何事もなく続けないように」 七香「いや、笑いたくなるのはごもっともですよ。あたしだって人からンなこと真顔で言われたら笑うわ」 太一「だから俺を笑かすために真顔だったのだろうに」 七香「そうだけど……でもちょっと真面目な話なんよ、これ」 太一「神様が?」 七香「そう」 七香「大切なことだよ」 太一「なぜに?」 七香「とにかく大切なことなの!」 力説。 わけわからん。 太一「だいたい何者だおまえは」 七香「……何者だとおっしゃいますと?」 太一「わからんとでも思ったか」 前髪を『ふぁさぁっ』と払う。 太一「この俺が、見抜けないとでも思ったか!」 七香「うっ」 太一「この酸いも甘いも噛みしめたヤングアダルト候補生、黒須太一の目をごまかしたくば、気の利いたパンチラ嬢の一人でも連れてくるんだな!」 ガッと指を突きつけて告げた。 七香「チラ」 一瞬パンツが見えた。 太一「うおおおおおおおおおおっ!!」 太一「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」 太一「バンボーレッ!!」 鼻血を吹き出しつつ、俺は倒れた。 七香「よわぁ……」 太一「おぶおぶおぶ」 不意を突かれた。 七香「しかも鼻血って。80年代のラブコメかおまいは」 太一「卑怯ナリケレ」 七香「不用意に人を詮索しようとするからだ」 太一「するだろ普通」 太一「会ったこともない処女に馴れ馴れしく話しかけられればな」 身を起こす。 七香「会ったこともないということはない」 太一「否定の連続」 七香「AT○Kかおまいは」 太一「いつ会ったって?」 七香「……難しい質問だなぁ」 処女は遠くを見た。 七香「うまく答えられないよ」 太一「……さっきから気になってたんだが」 七香「んゆ?」 んゆとか言いやがった。 侮れねぇ。 太一「貴様、地球人ではないな?」 七香「はあ?」 太一「何星から来た」 七香「地球」 太一「うそだ、おまえみたいな地球人がいるかー!」 太一「どうしてそんなふわふわしてるんだ! おかしいじゃないか!」 七香「ふわふわ?」 太一「なんかこう……もわっとしてるっちゅーか、つかみ所がないっていうか、気配が違うって言うか、うまく説明できんがなんか違うんだい!」 太一「はっ!? まさか俺を、俺をその淫妖花弁の虜に堕落せしめた挙げ句に精髄をすすってダメにする気だな!?」 太一「妖婦? 妖婦なの!?」 俺は子猫ちゃんのように怯えた。 七香「おちつき」 太一「ふな?」 抱きしめられた。 太一「…………」 七香「ちょっとナーバスになってたんだね。よしよし」 ぎゅっと。 圧力が柔軟さにまさって、顔が沈み込む。 太一「おお……」 太一「これこそまさに母なる丘、この二つの丘陵こそエローマ帝国の発展の礎となり諸国にその名を轟かせることになるだろう!」 七香「胸を揉むな」 太一「久しぶりのおっぱい……」 七香「揉むなというのに」 膝が鳩尾に入った。 身体が宙に浮いた。 太一「おぐぉっ……」 地面にはいつくばる。 最高に無様だった。 太一「……んー?」 七香「どした?」 太一「なんか」 今さっきセクハラをかました我が手を眼前で、開閉させてみる。 太一「違和感。いや、違うな。なんというか……うーむ」 わからなくなった。 女の子に触れた時にわきあがる感情が、しゅんと萎む。 去勢されたみたいに。 七香「……痛かった?」 太一「いや」 そんな本気で心配されても。 立ち上がる。 太一「いやー、いいものをお持ちで」 とりあえずいつもの軽佻浮薄で、仕切り直し。 七香「いやなに。淑女としては当たり前のことですよ」 太一「ある種の優しさと気品、そして内から漂う馥郁《ふくいく》たる香気を感じさせる、近年まれに見る一品であると言えましょう」 どこぞの批評家のように言った。 七香「過分のお言葉です」 太一「と、冷静になったところで」 太一「名を名乗れ」 七香「……名乗ってなかったっけ?」 太一「通りすがりの処女としか聞いてないが」 七香「通りすがりの処女だなんて言ってねぇけどな……」 七香「あたし、七香」 太一「俺、太一」 七香「知ってる」 太一「どうして俺の名前を?」 七香「ひ み つ♪」 謎が多いな。 七香「こんなくらいにしておくか」 太一「で、本題なのだが……おまえはいったい」 七香「ばいばーい」 太一「待てい!」 去っていく背中に。 七香「なにゅー?」 うっ、そんな聞いたこともない萌えワードを。 きっと『イルクーツク・マニア』と同じくらい世界的にも使用回数の少ない単語に違いない。 太一「そのピティワードに免じて見逃してやりたいところだが、どこの星から来たのかくらい白状していけ!」 七香「だから地球人だっつーの」 太一「うそだ、地球人の気配と違う!」 俺は得意のカラデの構えを取った。 カラデは究極の格闘技だ。 七香「ふっふっふ」 白い指先が俺をびっと指す。 太一「?」 いや、俺の背後だ。 振り返って、視界が学校をとらえて数秒。 返事がない。 目線を七香に戻す。 彼女はいなくなっていた。 自転車とともに。 早いで済まされる現象ではないのだが。 太一「…………ぉゃ?」 蝉も鳴いてない、静かな新学期だった。 いくつかの坂を越えて、商店街に。 人影はない。 田崎商店が見える。 太一「……」 ある種の期待とともに店内をのぞく。 だが、そこに人の息吹は感じられない。 太一「……不在か」 田崎食料はここしばらく、不在続き。 この地域密着型ショップの店主 田崎吾一郎氏(47歳独身)は無類の鉄道マニア。 よくふらりと店をあけ、遠方の土地にローカル線の写真を撮りに行く。 たまに写真を見せびらかされるが、ちっとも楽しくない。 こっちは電車に抱く幻想など持ち合わせない今っ子なのだ。 店は店主不在時もあいている。 道楽的な無人商店だ。 20代の頃JRへの就職に失敗し時代遅れのヤンキーへと失墜した氏だが(三十路までこの愚行は続いた)、ご両親の死後しばらくを経て、険の取れた豊かな顔つきへと変わっていった。 遺産以外の何が、元暴走族の粗暴な鉄オタを善人に変えうるというのか。 とにかく目先の現金にだけはありあまっている氏の店は、近隣の住人に対してはいくらでもツケてくれる希有な地元密着型店舗なのである。 だから人がいないのは珍しいことではない。 そういえば、ちょっと喉が渇いたな。 店の奥に行って、緑茶のボトルを一本取ってくる。 メモ帳を取り出し、ペンを走らせる。 『9/7、大緑茶、130円……黒須太一』 壁にぺたりこ。 見ると、もう何枚ものメモが張ってある。 『9/3、野菜ジュース健々GOGO、110円……山辺美希』 『9/3、マグナムライチ、110円……桜庭浩』『ピリッと辛いです』 『9/4、ペットボトル天然水、140円……宮澄見里』 『9/5、野菜ジュース健々GOGO、110円……山辺美希』 『9/5、キングドドリア、110円……桜庭浩』『あんまりおいしくなかったです』 『9/6、野菜ジュース健々GOGO、110円……山辺美希』 『9/6、胡椒警部、110円……佐倉霧』 合宿中はいろいろ買いにきてたんだっけ。 太一「……」 合宿から帰ってくると、町から人はいなくなっていた。 テレビ、ラジオ……あらゆるメディアが沈黙し、また電気や水道などの施設も止まっていた。 皆、麻痺していた。 棚上げするには重すぎる感情のやりとりが、直前にあったからだ。 疲れて、話し合う気力もなく。 結論を保留したまま、別れた。 そして今日。 新学期。 俺は普通に登校しようとしていた。 扉を開く。 遮断されていた人の気配が溢れて、さらりと頬を撫でた。 窓際の席。 立て肘をついて座っている少女が、ちらと一瞥をよこす。 美しい長髪。 それは神経質なほどの手入れによって保たれている、危うい整然。 近くで見るとわかる。 鉄壁の管理は、ほつれ・枝毛の一本たりとも許していない。 触れると軽く、指で梳けばさらさらと砂のように流れる。 はじめて会ったとき、彼女は無敵の鎧をまとっていた。 近寄りがたい雰囲気という、見えない甲冑。 理由はいろいろあったのだろう。 ここが群青学院であること。 けたたましいクラスメイト。 死人のようなクラスメイト。 ただ自らの世界しか見ていない虚ろな少年少女たち。 まともに会話が成立する者など、数えるほどしかいない。 各所に立つ、感情を抱かない警備員たち。 躁狂めいて戯画化された教室世界。 屍の山に、ゼンマイ仕掛けの玩具を放り込んだが如く、悪辣な世界観。 適応係数46、桐原冬子がその中で生きるには、残された54%を守るものが必要だった。 他者を疎外することで、保たれる自意識。 その意味で、入学当初における彼女の選択は正しかった。 今の冬子は、当時の彼女と似ている。 虚飾と、虚勢と、虚栄心。 それが桐原冬子という人物の全てと言えた。 太一「へえ、来てたんだ」 冬子「……」 視線が窓の外に投じられる。 そらぞらしいほどのタイミングで。 無視する気まんまんだ。  ・屋上に行く  ・冬子と話す 太一「……」 つくづく、きつい美人の典型。 今話すのはやめておこう。 太一「屋上でも行くかなー」 教室を出る。 間際、視線を感じて振り返ると、目があった。 冬子「……っ!!」 慌てて転じた視線が、投げやりに外に放り出される。 太一「……」 ことさら指摘することはあるまい。 そっと扉を閉めて、廊下に出た。 この扉をあけたら、屋上がある。 そこにはきっと、彼女がいるだろう。 扉を開くのに、少しだけためらいがあった。 失敗するとわかっていた合宿。 無理を言って先輩を駆り出した。 それが彼女を傷つけることさえ、予想していた。 予想していたけど、考えないようにして。 そして今また、彼女……先輩を利用しようとしている。 己が心の平安のために。 今さらどの面さげて、と思いもする。 が、人間は気分の生き物で、今朝はそんな気分だったから。 自分への説明はそれで充分だ。 けど先輩は、どう思うだろう。 少し気になってしまった。 ノブをひねって、鉄扉を押し出す。 風が吹いた。 ちょうど踏み出た瞬間に。 だが不思議と、晴れ晴れとした気分にさせてくれた。 目線の先、広々とした給水塔が階段とは別にあって、その土台を共有して、大きなアンテナが立っていた。 太一「……へえ」 まだ未完成のアンテナ。 足りない部品と知識。 彼女はそれらを前向きな気持ちでもって補いながら、少しずつ形にしてきた。 いや。 後ろ向きの気持ち、なのかもしれない。 そういうことは、往々にしてあるのだから。 合宿前。 彼女は一人だった。 部活はその逃避する最後の砦だったことを、俺は知っている。 そして今また、部活は逃避の砦のままである。 宮澄見里。 見里先輩は今、風に抱かれてアンテナと立っている。 太一「せんぱーい!」 呼びかけると、扇状の毛髪が大きくうねる。 群青色の大空を泳ぐ漆黒のケープ。 見里「ぺけくん?」 耳を澄ませば、彼女だけが呼ぶ俺の名が届く。 柔らかな紅唇の動きとともに。 突風の中で囁きを聞き取れたのは、実のところカクテルパーティー効果でしかないのだが、何か先輩と俺との特殊性を夢想させてやまない。 幸せな錯覚というやつだ。 そのたもとに歩み寄る。 先輩は微笑んでいる。 俺も自然、ほころぶ。 視線が睦み合うほどに継がれる。 そして俺は、もの柔らかな思索の胞衣に包まれつつ、宮澄見里という閑雅なる奇蹟によりそう切なる真実をマリアナの海淵にも増して深くふかく悟り上げるのである。 ……………………パンツ見えてる。 見えてる見えてる! すっごく、すっごく、見えちゃってる! それはもうパンチラの国ですかってくらい! しかも本人気づいてない! こういうのが一番たまらないよ! ピーピング! ピーピング!(警報) パンチランド共和国、建国万歳! 素晴らしき国! いい国! 永久に! 見里「……………………?」 見里「…………………ん?」 見里「…………ぺけくん?」 見里「ぺけくんぺけくん?」 太一「はっ?」 見里「もしもし? どうかしましたか?」 しまった、また意識が飛んでしまった。 太一「ああ、いえ、異常ありません。ええ、爪先に至るまでです」 見里「でもヨダレ垂れてますよ?」 太一「切腹します」 シャツを脱ぐ。 見里「ちょっとちょっとっ」 見里「どうしてヨダレごときで切腹です?」 太一「先輩を汚しました」 見里「よくわかりません……」 その方がええです。 見里「それよりどうしてここに? 授業はどうしたんです?」 授業だって? 我に返って、先輩の目をじっと見つめる。 太一「…………」 見里「あ、わかりました。サボりですね」 指を立てる。 なんてこった。 いつもの彼女だった。 見里「図星でしょう?」 太一「は、まあ……」 正気に、常軌を。 逸していた。 彼女は受け入れていない。 人の消失した、この現実を。 他はすべて正常。 見里「サボるなんて感心しませんねー」 太一「…………」 昨日。合宿が終わったあとの、別れ際。 彼女が漏らした言葉から受けた印象は、当たった。 見里『明日、部活がありますから』 そんなシンプルな形で。 見里「夏休みも終わって新学期、気が抜けたコ○コーラみたいな気持ちを引きずっていてはいけません」 太一「…………」 見里「うまずたゆまず姿勢を正して授業にそして課外活動に励むのが、日本男児の美徳というものでありましょう」 太一「…………」 呆けた者が、傍目の印象に反して幸福であるように。 本人だけは幸福なのだ。 見里「とはいえ、初日に授業があるわけでもありませんし、これくらいにしておいてあげます」 そうだ。 幸せなら、それでいい。 誰彼にとって望む自分が、常に高潔であるとは限らない。 価値観を人にを強いるほど、俺が偉いわけでもない。 むしろ俺こそが欠陥品じゃないか。 許容して、協力しよう。 彼女の逃避に。 一人だった俺を……放送部に誘ってくれた人だから。 見里「それに、実はわたしもサボリです」 先輩は小さく舌を出す。 俺は渾身の意志で、己に命じた。 演じろ。 太一「ぎゃふんっ」 先輩は目を細くする。 いつもの笑顔。 見里「ちょっとお待ちください」 おりてくる。 彼女の爪先が床を踏む頃には、もとどおりの二人。 見里「ハーイ!」 太一「先輩、聞いてください!」 究極格闘技カラデ、その正拳側中段突きの構えを取る。 ※正拳側中段突き=真横への正拳。カラデにおいては全方位の攻撃は基本であり、特に正拳突きは背後をのぞく広範囲を制する。同様にカラデには通常格闘技では想定されない、真上ならび真下への技も存在する。 ※そんな奇天烈な攻撃をしてくる相手が地球上の生命体でないのはまず確実だが、備えあれば憂いなし。万一そのような敵を前にしたときはカラデのみが唯一抗しうるのは確実であり、まさにある意味最強。すべて世はメタゲームなのである。 四股を踏む相撲取りみたいな格好だが気にしない。 見里「な、なんですか?」 先輩も何かわけのわからない構えを取る。 太一「今までさぼっていた部活に参加したいと思いました、オス!」 見里「なんですってー!?」 太一「スク水からアンスコまで、黒須太一はあなたの部活ライフをいやらしくサポートします!」 見里「想像するだにめまいがしますね!」 太一「恐悦!」 見里「誉めているように聞こえましたか!」 太一「他に理解のしようがありませんでした!」 見里「すっごく頭いいです! あまりにも良すぎたため、一回転してもはやおバカちゃんに戻ったのではないかと疑いました!」 太一「天才と我々は紙一重だと言いますからナー!」 変なポーズのまま、変な会話に興じる二人。 うん、これぞ部活。 太一「さあ、オイル塗りからバストマッサージ、野いちご狩りまで幅広くこなすこの愛肉奴隷めに、なんなりとお命じください」 見里「まあ」 調子に乗ってついHなことを口走る。 先輩はHなことに厳しいのだ(鈍いけど)。 幸いなることに、先輩はにっこり微笑んだ。 今のセクハラ発言に気づかなかったのか? 天使の口唇が父なる神の慈愛を感じさせて告げた。 見里「ここからいなくなれ」 太一「中国株に手を出したのが凋落《ちょうらく》のはじまりだったーっ!!」 フェンスの向こうに広がる無垢なる青空に生々しいことを叫んだ。 ま、机を食べないことで笑いを取れる中国人とか自体もういないけどな。 太一「アンテナ、だいぶ形になりましたね」 見里「うん。頑張りました」 平然と会話は続く。 ことほどさように、俺と先輩の関係性はとても強固なのだった。 世界が滅亡したくらいでは壊れません。 太一「もう完成ですか?」 見里「……まだ全然なんですよ、これが」 業者が組み立ててくれるはずだったアンテナ。 搬入だけされて、うち捨てられた。 見里「専門家じゃありませんし、だましだまし組み立ててます」 見里「本体はいいとしても、配線や調整は手つかずですし」 太一「あらら」 残念ながら、俺にもそういう知識はない。 太一「……手伝えること、いやらしいサポート以外はなさそうですね」 見里「いやらしいサポートとかしたら停学にしますよ〜」 なでっこなでっこ 頭をなでっこされる。 太一「うるきゅー」 喉が鳴る。 見里「よしよし」 太一「うーうー」 見里「そういった擬声語や擬態語ティックな言葉を頻繁に口走りつつ、わかりやすく赤面したりヤキモチ焼いたり過去のトラウマを適度にあかしていってくれるだけでいいんですよー」 太一「すっごい即物的な俺になっちゃいそうです!」 見里「大衆がそれを望むんですよー」 太一「大衆なんてっ、嫌いっ!」 もういないけどな。 ちらと見やった先輩の手が、傷だらけなことに気づく。 太一「うわー!」 手を取る。 太一「傷だらけだ!」 見里「え、ああ、そうですね……」 太一「一人でやるから」 見里「…………」 気まずそうに目をそらす。 太一「みんなでやった方がよくありません?」 見里「みんなでって……」 先輩は一瞬、絶句したようだ。 太一「ホラ、部活ですし。その方が感じ出るかなって」 見里「で、でもですね、それはさすがにきついのではないかと」 太一「やりようですね。そいつを攻略するのにもっとも適切な駒を使えばいいだけのことでありましょう」 太一「三すくみにおけるナメクジを擁したカエルが蛇をも使役するに至ること示唆しているのと同じく、的確な人材によって急所を突くことが人間社会においては肝要であるわけでして」 太一「理論的には、自分が支払える代価で手に入る駒をもっとも友好に使える局面に冷静にぶつけていけば制覇は成立しうるわけですから」 太一「無論、チャートが進むに従って管理の煩雑さと管理者の育成・配置といった新しい要素も混入してくるわけですが」 太一「ここいらになってくるとマキャベリズムにも触れる必要が出てきます」 太一「また、かのマインカンプで記されているようなオープンな政治詐術というか演劇・ドラマ的な高揚感を与える手段の存在について、 あれが許容されるのは受け手側が幸福なる錯覚を望んでいるという側面もありますので考慮することがマイ第三帝国の結実のためには……」 見里「はわわっ」 先輩はがくがくと震えた。 見里「ぺけくんがすっごく邪悪っぽいです……」 しもうた。 空疎な饒舌さが求められている昨今の僕ら事情にあわせて無駄な読書ばかりしてきたせいか、ついリコーダー的に再生がかかってしまった。 先輩の前では、素直な僕でいいのに! ということで誤魔化すことにした。 太一「ああっ、頭痛がっ!」 見里「大丈夫ですかっ?」 太一「く、苦しい……母さん!」 見里「ああ、しっかり!」 先輩の胸に倒れ込む。 太一「なんか今へんな外宇宙の超知性存在オムルスがエッセネ派の叡智をもってエルゴ領域を越え並列的宇宙史観を浸食してきたんですー!」 見里「よくわからないですけど、良い子のままでいてくださいー!」 太一「出て行けー、僕の中から出て行けー!」 見里「でていけー」 加勢してくれた。 太一「うおー」 太一「ふう……助かったようです。ついでに大宇宙の霊的危機も解決しました」 見里「すごく早い展開で助かります」 太一「いやなに。はっはっは。第七世界から感謝の念が届く思いであります」 見里「すこしふしぎ……」 太一「そんなわけでいつもの太一です」 体操していつもの太一をアピール。 見里「お疲れさまです」 太一「さあ、何をしましょう?」 見里「そうですねぇー。じゃあ……」 見里「冷たい飲み物でも持ってきて下さいますか?」 太一「はい! ……って、それだけ?」 見里「ええ。他には特に」 太一「んー」 思案。 太一「もしかして、邪魔だったりします?」 先輩は慌てた様子で、ぱたぱたと手を振った。 見里「そんなことないですよ。ただ……わたしが個人でやっていることですし」 見里「他の人を巻き込む必要ないなって」 見里「……」 押し黙る。 太一「……」 先輩の部活は、彼女だけのもの。 そんなフレーズが脳裏をよぎる。 見里「わたしは好きなことやってるだけです」 見里「皆とおんなじに」 太一「みんな……好きなことやってるわけじゃないスよ?」 見里「そうですか?」 太一「そう思います」 たとえば冬子。 学校に来る必要があるのだろうか? 合宿から戻ってきたら、人がいなくなってて、文明からも切り離されて。 無線も電話もネットも通じなくて。 水道も電気もガスも使えなくて。 その原因さえわからない。 とくれば、無力なボーイミーツガールである俺たちに、できることは日常の反復しかない。 冒険も探求もできない。 そうはいかない。 心は麻痺するものだからだ。 群青の者は、特にそう。 現況下において、精神にダメージを受けていない人といったら……曜子ちゃんくらいのものか。 あと……あの娘。 ……はて? わからない。 わかるのは。 曜子ちゃんと似ているような、別物のような。 そんな違和感だけだ。 『今』の俺では、それが限度だった。 さておき。 曜子ちゃんが、人類が消失したくらいで動揺するはずない。 太一「今までの生活を、繰り返すしかできないんですよ」 見里「……」 先輩は深刻な顔をした。 俺はことさら相好を崩した。 太一「だから俺も通学とかしてみました!」 太一「あとハラキリ冬子も来てましたよ」 見里「桐原さんも?」 太一「座ってぼんやりとしてました」 見里「そうですか……」 太一「まあ、桜庭とか友貴とかは、そのうち補正されていくと思いますけど」 太一「あいつらはなんだかんだいって健全に近いんで」 見里「……そうだといいですねぇ」 少しためらって、目尻を下げる。 無理しているとわかった。 頑張って、明るく振る舞っている。 胸が痛んだ。 太一「……じゃあ、何か手伝えることがあったら言ってください」 見里「あ、はい、そのときは」 見里「是非に」 夏日の下。 先輩を残して、俺は去った。 鉄扉をこじあけて校舎に入る。 振り返ると、彼女はずっと見送ってくれていた。 蝉がうるさい。 こんな暑いのに。 奴らはいつだって本気だ。 太一「しかし」 どうするかな、これから。 屋上が炎天下となると、涼める場所はさほどない。 手近な教室をのぞいてみると、案の定授業中だった。 一年E組では、まちこ先生が授業をしていた。 太一「……」 彼女とは、表層的な心の交流さえ結べなかった。 あまりにも普通すぎたのだろう。 今はもう他人だ。 とにかく、このまま廊下をウロウロしてたら誰かに見つかる。 人気のない学食で、食券を買う。 部室へ。 友貴が漫画雑誌を読んでいた。 軽く会話をかわす。 途中、マンモスが通過して大騒ぎとなった。 きゃつが過ぎ去ったあと。 友貴「あぶないあぶない」 みゆき「カーテンつけた方がいいですよねぇ、廊下側の窓」 友貴「禁止されてるんだよ。学校もよくわかってるよな」 太一「いい手がある」 みゆき「……」 友貴「……」 太一「あー、諸君らが俺をどう思っているかは知っている。だがこれはつまらないギャグではなくマジでいい手なのだ」 みゆき「どんなんです?」 太一「友貴、マシン使えるようにしてくれよ。あとデジカメ」 友貴「はーん?」 ……。 …………。 ……………………。 太一「という感じでどうだ」 友貴「カムフラージュか、へー」 フルカラー印刷した『無人の室内』画像を、窓ガラスの内側に貼り付けた。 視点が多少ずれてしまうが、パッと見るくらいならある程度はごまかせる。 友貴「うん、これならばれないかも」 太一「わはは」 誇る俺。 そこにみゆきがトイレから戻ってくる。 太一「トイレどうだった?」 みゆき「あーんっ!」 泣いた。 みゆき「トイレだなんて一言もいってないのにー!」 太一「ハンカチで手をふきふきしながら戻ってくれば誰だってわかるわい!」 友貴「だからさ」 みゆき「気がついても言わないでくださいよぅ」 太一「だめだだめだ! 隙が多すぎる!」 太一「多すぎてもダメ! 少なすぎてもダメ!」 友貴「なんの基準なんだ……」 太一「正しい淑女のガイドライン」 みゆき「なりたくないですよぅ」 俺は愕然とした。 太一「な、なんてふしだらなことを」 太一「折檻だな、折檻! 折檻! 折檻!」 騒ぎながらみゆきの周囲をまわる。 みゆき「ううう」 怯えるみゆき。 くそう、地味なやつめ。 その地味さが俺をかき立てる。 太一「折檻! 折檻! 折檻!」 とスカートをゆっくりめくっていく。 友貴「お、おいおい」 太一「もし毛糸のパンツをはいていたら、汝の罪は許されるであろう」 太一「しかーし、もし薄手のショーツなどを生意気にも着用しているようであればぁ」 みゆき「あううぅぅぅっ」 霧「ちょやーッ!」 この声は? 太一「がああっ!?」 霧「この女の敵っ!!」 背後からの踵落としですかそうですか。 ゆっくりと俺の意識は混濁して……いく直前で復帰した。 べち 気絶していれば、床に顔面を叩きつける苦痛も感じなかったものを。 太一「……くぅ……痛いじゃないか、下級生」 ギロッという感じの視線が、俺を射竦める。 霧「どっちが悪いのか、一目瞭然ですから」 みゆき「あ、あの、あなたは?」 霧「通りすがりの転入生」 太一「おうおう、絵になる光景だのう、友貴よ」 友貴「頼むから僕が仲間であるかのように話しかけないでくれ」 友貴は冷たいので我関せずの立場を取った。 太一「ちっ、偽善者め」 まあいい。 太一「おい下級生、葬り去る前に名前くらいは聞いてやるぞ」 霧「痴漢!」 太一「俺を置き換えるだと!?」 友貴「果てしなくバカだね」 霧「先生に報告しますから」 太一「ほ、先生とな。どの先生に泣きつくつもりかな、おぜうさん?」 霧「誰にでも」 霧「だってこんなの、セクハラじゃない!」 友貴「……黒須と知り合ってまだ間もないけど」 友貴「セクハラという単語を聞く回数が飛躍的に増えて嬉しいよ。ありがとう」 太一「気にするなマイフレン、人徳のなすわざだ」 霧「堂々とスカートめくろうとするなんて……最低!」 太一「へえ。偉いんだ」 太一「でそれを、先生に言いつけると?」 霧「そうよ!」 太一「なあ、正義のヒロインちゃんはこんなことは考えないのかな?」 太一「なぜ俺が白昼堂々と、しかも人前でスカートをことさらゆっくりめくろうとしていたか」 友貴「……単に反応を愉しみたかったダゲァ!?」 正拳側中段突き。 太一「そしてなぜこの風紀委員長・島友貴がそれを止めることもできずにいたのか」 友貴「はい!?」 霧「ま、まさか……」 太一「そのまさかさ」 太一「すなわちそれは、俺がこの学院で絶大な権力を有していることを意味している!!」 太一「のう、友貴よ?」 友貴「だからこっちに振るなと」 霧「あんたたちっ!」 友貴「おいっ! 僕は違うぞ!」 霧「許さない。絶対絶対許さない!」 友貴「そもそも風紀委員ってのが違うダボァ!?」 正拳側上段突き。 太一「ふっふっふ」 ポケットに手をつっこみ、瞑想するかのように目を閉じ、名悪役の物腰で、 太一「すなわちそれは、俺がこの学院で絶大な権力を有していることを意味している!!」 語尾とともにくわっと開眼した。 友貴「それさっき言った」 太一「……」 友貴「使いどころが少し早すぎたんじゃないかな、さっきの」 太一「…………」 霧「群青学院にはいじめはないって聞いてたのに……」 みゆき「あの、いじめられていたわけではないので」 霧「……え?」 みゆき「あの人たちは、いつもああなんです。悪気ないんです」 友貴「たちって……」 友貴はげんなりした。 太一「たちって……」 俺はげんなりとした。 友貴「おまえがげんなりとする理由がどこにあるんだよー!」 太一「俺は偽善者じゃない!」 友貴「僕だって違う!」 太一「やるかー!」 もみあいに。 友貴「薄味マキャベリスト!」 太一「シスコン殺人事件!」 友貴「低学歴低収入!」 太一「アースデプリ!」 友貴「株の敗残《はいざん》者!」 太一「かかか株のことは言うなー!!」 霧「仲間割れをっ!?」 みゆき「あーあ……」 友貴「おまえだって人のこと、シスコンオナニーのプロとかあちこちで吹聴しただろ!」 太一「ああ言ったさ! 特に女の子に言ったさ! 皆もう大喜びさ!」 友貴「あれからたまにプロとか呼ばれるようになったんだぞー!」 太一「事実だろうが!」 友貴「こっちだって事実だ!」 太一「くっそー!」 友貴「なにをー!」 ポカポカポカポカッ!! そして。 俺たちは自滅した。 友貴「ううう」 太一「ぐぐぐ」 廊下に仰臥する二人。 みゆき「……保健室行きますか?」 太一「さ、さっきの正義の味方は?」 霧「佐倉霧。正義の味方じゃない」 少女は俺たちを見下しながら言った。 霧「……そしてあなたたちも、悪なんて美意識のあるものじゃないことがわかった」 ぶわっと友貴が滂沱《ぼうだ》する。 友貴「ぼ、僕は関係ないのに。太一のせいで僕まで……」 友貴はカブトの幼虫みたいに丸くなった。 友貴「いいもう。引きこもる」 しくしく泣き出す。 みゆき「そこまで……」 霧「この子もいいって言うし、その無様さに免じて今回だけは見逃してあげます」 太一「……体が動くようになったら……おぼえてろよ……霧とやら」 霧は冷笑した。 霧「どうぞ、ご自由に」 佐倉霧との出会いだった。 教室に戻る途中、処女がうずくまっていた。 美希だ。 山辺美希。 太一「おーす」 美希「っ!?」 美希は立ち上がる。 素早い挙動。 ゆっくりと振り返った。 美希「あ、先輩……どぉも」 顔をあげて会釈。 いつもと変わる風でもない美希だ。 少し違和感。 美希は、こんな強かったのだろうか? もともと素質はあったようだが、一回りも二回りもたくましくなったような。 そんな感じがする。 太一「なにしてんの?」 美希「そーじです」 太一「俺もやったぞ、そーじ」 美希「表面的な言葉遊びで送辞と相似とか言いますか?」 太一「……言いません!」 美希「なぜ怒るです」 太一「……」 美希「なぜ黙るです」 太一「そんなオチを封じた上にせかすなようっっ」 美希「わーい、勝ったー」 たくましかった。 太一「あ、思いついた」 咳払い。 太一「……人類を掃除した」 美希「きさまが犯人かー!」 太一「はー!」 たたかう二人。 太一「よっ」 太一「ほっ」 太一「……はっ?」 太一「おっっ!?」 胴体に一発当たってしまった。 う、なんか強い? カラデをおさめたこの俺を。 太一「おのれ」 ちょっぴり本気になる。 美希「しゅっ」 しなやかな脚が、腰より高くあがった。 軸足を払ってやろうと思ったが、白パンツが垣間見えた。 攻撃中止。 男太一、眼前に供えられたパンツを見ないなどという惰弱な選択肢はない。  ・パンツ見る  ・パンツ見る  ・パンツ見る うむ、ない。 腰を落として視線を下げた。 蹴りが来る。 カラデによる中段受けにて備える。 腕の間を、つまさきは柔らかく貫通してきた。 太一「れ?」 ありえん。 顎にヒット。 太一「あらら?」 俺は気絶した。 ……。 …………。 ……………………。 太一「はっ?」 美希「あ、よかった。気がつきましたか?」 太一「う、うー。俺ってばどれくらい気絶してた?」 美希「一分たってないですよ」 太一「あー、ついに美希に負けたかー!」 膝を打った。 美希「たは」 美希「でもすごく油断してらしたじゃないですか」 太一「いやー、あれは俺にとって他に選択肢がないからなー」 太一「……たぶん命がかかっていても同じだった」 美希「パンツに命を!?」 太一「チッチッチ」 指を振ってみせる。 太一「ライブで見る素人娘がリアルに着用しているパンツ、だよ、君」 美希「違うんだ……」 太一「違うとも。このように———」 がっし 愛弟子の短いスカートのはしをつまんだ愛指が。 チョキで、しっかと挟まれているっ! 太一「はっ、防がれた!?」 美希「ふふふ」 ショック。 太一「うーん、免許皆伝」 横たわって膝を抱え、エビチリみたいに丸くなった。 太一「で、俺はもう引退しゆ」 美希「しゆとか言うし……」 ゆさゆさと揺すられる。 美希「ししょー、元気出してくださいよ」 太一「いい。引きこもる」 美希「またはじまったよこの人は」 美希「……」 美希「全然……なのにな」 太一「ウイ?」 フランス人のように問い返す。 美希「みんなに普通なのに」 声が震えた。にわかに。 太一「ミキミキ?」 美希「ほら、こんなに手が震えてます」 広げた両手が、汗ばんで、かじかむように。 まるで怯えているかの如く。 太一「……どうして?」 美希「それはもう、せんぱいのプレッシャーみたいっぽいやつに当てられて、小心者の美希はビビリまくりなわけですよ」 太一「……」 美希「だから、元気出してください」 太一「んー」 励ましてくれているだろうか。 様子が変なのが気になるけど。 うーむ、ポワワとしてしまうではないか。 太一「よし、免許皆伝をやろうではないか」 拳を打つ。 美希「え?」 太一「手帳を出しなさい」 美希「……あーあー……アレですか」 美希「なんか久々ですねえー」 なんとも切なそうな顔をする。 というか(というか?)泣きそう(泣きそう?)ではないか。 多重に思ってしまったぞ。 美希はメイトブックを取り出す。 当校では身分証明書をかねるこの手帳を、『都会』の駅裏にある人気NO1高級浴場『メイトブック』にちなんでそう呼ぶ。 ちなんでねぇよ、と自らに突っ込む。 本当は偶然です。 美希「……すんっ」 太一「どうしたん?」 泣いている。 というか(というか?)泣いてる(泣いてる?)。 多重に思ってしまったぞ。 太一「……やっぱり、けっこうショックだったのかな?」 美希「え?」 太一「こんなことになって、世界が」 美希「ああ……」 微妙なためがあった。 美希「そうですね、そうかも」 太一「だろうな」 太一「俺だってびっくりだ。こんなの」 美希「せんぱいも?」 太一「ああ」 太一「もう13歳とか15歳の新じゃがならぬ新処女と出会う機会はなくなったわけだよなぁ」 美希「そっちかい」 太一「そら」 手帳を取り上げる。 太一「美希は手帳だいぶ使いこんでるなあ。ぼろぼろだ」 美希「ぼろぼろ」 無意味に繰り返すことで肯定する美希。 ページを繰ると、メモ欄にはすでに俺のサインがでかでかと書かれていた。 何ページにも渡っている。 俺様サイン練習帳といった有様になっている。 白紙を見つけ、そこに新たなサインを書き込む。 いつ頃からかはじまった、俺たちのお遊びだ。 他愛ないことだ。 手帳を返す。 受け取って、美希は胸元に抱える。 ぎゅっと。 失われた日常を、かき抱くように。 ちょっとあふれた涙を、ぬぐってやりもする。 わ、俺って紳士。 美希「ども……」 太一「なに」 廊下を見渡す。 太一「しかし、掃除とはね」 美希「体動かしていた方が落ち着くかなって」 太一「ふーん」  ・掃除を手伝う  ・スカートめくる 微笑む少女の胸元に、自然な挙措で手が伸びた。 隙を突かれたのか、美希は笑顔のまま身動き一つしなかった。 キイィ なぜか扉の開く音がした。 事実、それは地球上の男子25億にとって(現在三人)の、施錠されていない神秘の扉。 全人類に足蹴にされることを運命づけられた不幸なる大地と床だけが覗き見ることを許される、秘儀たる領域。 だが、そんなたいそうなものでありながら、チェッリー・ティーンがスイorアマイバインディングヤングアダルトになるために誰もがくぐるべき入り口でもある。 ただしそのドアは、四角形ではなく三角形ではあるが(米笑)。 ※米笑=太一表記。(笑)の亜種。米国風の笑いを意味する。 米国人はギャグを言い終わると自分で笑う(それがどんなに寒々しくても!)まこと奇怪な習性があることから、特にしょうもない言い回しを使った際に天然で使ったと思われぬよう自虐的な意図も込めて使用する。 美希「……しまった」 笑顔のまま、口元を引きつらせる。 太一「ごめん、無意識に手が」 美希「いえ、うっかりしていたわたしが悪いのです」 太一「あの、こんなこと俺が言うのもなんだけど……そのランジェリー、とってもセクシーだね。お兄ちゃんちょっびっくりしてる。いい意味で」 美希「恐縮です。いつ手を離していただけますでしょうか」 太一「そ、その、その下着は、美希の清楚な、下着っ、デルタが、清楚な、体は正直っ、色がっ、しっとり包んでっ、こうっ、子猫ちゃんがっ」 思考が千々に乱れる。 美希「さー、それ以上は精神的にも危険ではありませんでしょうか?」 太一「いや、とても無理だ。この手は我が手ではないかのように石化してしまった。鍵っ子が自宅の鍵をキーピックするみたいに気軽に解除することはできない」 太一「しかし……美しいものだ」 美希「は、ありがたきお言葉。そろそろお離しいただければ幸いです」 太一「どんな美少女フィギュアよりも、この生気ある瑞々しさは再現できまい。あの教師にしてフィギュア界にその名を轟かせる一流造形師である榊原潔教諭の腕をもってしてもだ!」 美希「……殺すぞ」 太一「ひぃぃぃぃぃぃっ、本気の目ですね!?」 狩人の目だった。 離れる。 太一「あ、でもずいぶん大人っぽいのを履いてらっしゃるんですね、そのう」 敬語になってしまう。 美希「……ええ、まあ」 少し赤面して美希。 美希「その、水とか出ないんで、洗濯とかできないですし」 美希「お店に行けば新しいのはありますし」 しかもタダだ。 太一「それで……普段は買えないようなセクシーなやつを持って来ちゃったの?」 美希「……はい」 うーん。 けどどうしよう、教えた方がいいのかな。 放置しておいてあげるべきなのか。 太一「あ、あのね、美希りん」 美希「美希りんです。なんですか?」 太一「その下着さ……俺ちょっと知ってるんだけど」 太一「えーと」 太一「あのね、それって玩具下着なんだよ。オープンショーツとかホーニーショーツとか言う」 美希「は?」 太一「えーとね、大人のね、玩具のね、下着なのね」 つんつんと指先を見合わせる。 太一「だから……まーつまり、脱がずにHできちゃうよう秘密の部分に切れ込みが入ってたりするんだわ」 太一「これって、一種のショートカットとも言えるよね!」 人差し指を立てつつ、満点の笑顔を向ける。 と。 美希「……………………」 ダダダダダダダダダッ 走り去った。 トイレに消えて一分。 戻ってきた。 美希「こここコレコレコレコレッッッ!?」 太一「たぶん君はアトミック雑貨(旧木村雑貨店)から下着調達したんだと思うけど、あそこ普通の下着とアダルト下着並べて売ってるんだよね。ほら、そばが団地じゃん? 若奥様相手のラインナップなんだろうね」 太一「俺もよく利用してまーす」 歯を輝かせて親指を立てた。 美希「うひーーーーっ!?」 股間を前後からがっしとおさえた。 太一「落ち着き」 太一「でもそんなの履いて痴漢に遭遇したら大変なことになるね」 美希「ふわわわわ」 美希は股間を押さえて、もじもじ脚をすりあわせた。 太一「……さて」 太一「霧ちんがこのことを知ったらどうなるかなー」 架空の煙草を吸った。 美希「なっ、せんぱい、まさか!?」 太一「あの潔癖性の霧が知ったら、うひ」 太一「フラワーズも解散か?」 美希「にゃごー!?」 すがりついてくる。 太一「……ミキミキがこぉんなHな下着を履いているなんて。不潔」 太一「お弁当交換もなしだね」 美希「それだけはー!」 太一「ならば言うこときくか!」 美希「処女よこせとか以外だったら〜」 太一「いいだろう。では命じる」 頭に手を乗せる。 美希は少しびくっとしたが。 嫌がらない。 太一「掃除をするんだ」 美希「……ゑ?」 太一「いや、二者択一だな」 太一「掃除か、まふまふかだ!」 美希「まふまふとは?」 太一「うむ、まふまふとは……」 太一「と、このような行為だな」 太一「脚と脚の間に顔をつっこんで、まふまふ、まふまふ……」 美希「ペッティングっす!」 美希「まふまふとか可愛く称してもだめっす! ペッティングっす!」 太一「したいなー、まふまふ」 美希「いやーーーっ、まふまふはいやーーーーーっ!!」 太一「霧に嫌われるか、それともまふまふか! 開戦か、和平か!」 美希「はい、あの、掃除って? 掃除はだめなんですか?」 涙目で挙手。 太一「ふむ。掃除を選ぶのかね?」 美希「掃除って……ただの掃除ですよね?」 太一「いや、掃除には違いないんだけど、洗う場所がね……フフフ」 美希「貞操終了」 美希は屈した。 美希「風が語りかける。長いようで短かった処女の日。今日、わたしは一歩大人になる。もっとも望まないかたちで———」 架空番組のナレーションを読みだした。 太一「冗談だ」 美希「えぐえぐ、せめて優しくしてください……」 太一「冗談だというのに」 太一「ほれ、モップだ」 手渡す。 美希「……?」 美希「モッププレイを?」 太一「エロから離れて良い」 まだ美希はきょとんとしていた。 太一「掃除してたんだろう?」 こくと頷く。 太一「では、すみやかに掃除を続けたまえ」 太一「望むままにだ」 美希「は……」 美希「ども」 なんのことはない。 自分ではたき落として自分で引き上げただけだ。 太一「この黒須太一に惚れることを許可する」 美希「申請取り消します」 太一「ガッデム!」 太一「さて」 ふぁさぁっと前髪を払う。 太一「邪魔したな」 美希「おつとめご苦労様です」 太一「そうだ、美希」 立ち止まる。 大切なことを伝え忘れていた。 美希「はい」 太一「そろそろ部活、活動再開するってさ」 美希「部活ですか?」 太一「どうしても心がきつくなったら、顔を出してみるといい」 太一「そういうための、部活だろうから」 ゆっくりと、美希の顔に理解がさした。 美希「……はい」 喜びだけでないなにかが、そこには混入していた。  ・教室に行く  ・屋上に行く 暇を潰して。 夕方になった。 先輩はいるかな? 先輩はいるかな? 記憶とともに、温度もゆるくなったようだ。 屋上から見渡せた藍色の帳は、すでに緋色に染め直されている。 吹きつけていた突風もない。 去勢された猫のようにおとなしい、黄昏の頃。 誰もいない。 見里先輩の姿を捜す。 太一「あ」 アンテナが佇むのその隣で。 太一「いたよ」 寝ている。 見里「……」 規則的な軽い寝息。 雑音に過ぎないそれは、不思議な音楽性を伴って思考を弛緩させる。 吸って、吐いて、吸って、吐いて。 優しく無害な気息。 飾り気のない、彼女の自然体の姿。 そこに嘘はない。 汚れもない。 眠りのときは、誰もが無垢な時代に戻る。 じっと。 奪われた視線を、世界を包む薄暮の鮮やかさでさえ取り戻せない。 ずっと。 先輩を見ていた。 羨望と憧憬をもって。 太一「……」 どれくらい、そうしていたのか。 すこやかな寝息はおさまり、まぶたが震えた。 長い睫毛が小刻みに痙攣する。 瞳が薄く開いた。 太一「……やっぱり、先輩はいいな」 見里「あ……あれぁ……?」 言語感覚が鈍った先輩は、童女の如くあどけない声を立てた。 太一「おはようございます」 見里「……黒須……君?」 太一「ぺけです」 見里「ぺけくん……」 先輩専用のニックネームを、彼女が復唱する。 見里「……ん、やです……」 見里「寝顔見たら、いゃ……」 二の腕でいちどきに双眸を覆い、かすかに身もだえる。 無防備な自分の姿は、誰だって隠したい。 隠したいということは、普段の自分に嘘があるということで。 先輩もまた同じか。 ……寒い思考を切り捨てる。 やがて先輩は身を起こす。 見里「いつからいたんですかぁ?」 太一「今ですよ」 見里「……んー」 疑惑のまなざし。 太一「本当です」 両手をあげて、降参してみる。 太一「先輩に嘘なんてつきませんよ」 見里「……」 太一「でも、日中は寝こけないようにしないと危ないですよ」 太一「脱水症状や日射病になったら危険ですもん」 見里「ん、そうですね」 あくび 欠伸を噛み殺す。 眼鏡がずれていた。 つい手が伸びた。 見里「え……?」 眼鏡を両手で挟み、顔を寄せて、そっと元に戻す。 太一「これで、いつもの先輩」 見里「……もう、危ないなぁ」 太一「へ?」 見里「ぺけくんのそういうところ、危険です」 少し怒っている気がする。 太一「どこが? なぜに?」 見里「鏡を見て考えなさい」 太一「はーーーんっ!!」 うわ、泣きそうなこと言った、この人! 太一「俺が不細工ってことですかぁーっ! うわあああ、気にしてるのにー!!」 見里「え、違いますって……」 太一「醜い……僕は醜いんだ……ママン……」 見里「あああ、違います、違いますってば、ね?」 太一「ママンが醜く生んだから……」 見里「だーかーらー」 太一「いいんです、どーせブッサーなんです。大自然の一部なんです。キモダンなんです」 見里「いえ、そんなことは……確かに最初に会ったときはおどろかされましたけど」 太一「……」 最初に会ったときはおどろかされましたけど。 太一「…………」 最初に会ったときはおどろかされましたけど。 太一「……………………」 最初に会ったときはおどろかされましたけど。 太一「は、はわわ、はわわわわ……」 見里「ぺけくん?」 太一「ぎゅわーーーーーーーーーーーーーっ!?」 太一「ウィーオン! ウィーオン!」(警報) 太一「グィー、グィー、ピーウィアン!」(駆動音) 見里「わっ、ぺけくんがおかしな具合に!」 太一「我ガ名ハクリエイター、人類ノ支配存在デアル!」 見里「わ、わ、ぺけくんが二十年前のゲームのボスみたいな陳腐な創造主に!?」 太一「ナニユエ我ニ逆ラウノカ。我ノ支配ノナカニイレバ、永遠ノ平和ヲ手ニ入レルコトガデキヨウ」 見里「質問が」 太一「ナンダイ?」 見里「どうして不自然な擬古文で話すんですか?」 太一「ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!」 見里「ごめんなさい、やっぱいいです」 太一「スターバスター発射用意!」 見里「えいっ」 太一「ぐふっ」 太一「……はっ、ここは?」 見里「よかった。元に戻って」 太一「おかしいなぁ」 見里「どうしました?」 太一「すごいショックなこと言われて、仕返しに人類滅亡爆弾スターバスターを発射する夢を見てたんですけど……動機になったショックなことってのが思い出せなくて」 見里「そんな爆弾だったのか……」 太一「うーん、なんだったけな」 見里「ぺけくんは容姿のこと気にしすぎです。人間は心ですよ」 太一「容姿……?」 あ、そうだ。 見里『最初に会ったときは(そのあまりの醜さに)おどろかされましたけど』 太一「おおおおおおおおお」 見里「また……」 太一「ジェロニモーッ!!」 見里「……誰?」 太一「う、ひっく、えぐっ」 見里「どうしろと……」 先輩はおたおたした。 太一「せんぱーいっ」 抱きついてみた(あえて)。 見里「……うっ」 一瞬、身構える先輩。 中空を両腕がさまよう。 太一「好きで、好きで醜く生まれてきたわけじゃ……だから、せめて清潔にはしてるし……人を不快にさせないように……ひっく……」 見里「あぁああ」 先輩の体から、ゆっくりと強ばりが抜けていく。 見里「ぺけくん」 そっと抱きしめてくれた。 太一「……」 ふくよかな胸に顔を埋めた。 埋めまくった。 制服ごしに甘い体臭がした。 くらくらする。 少し、汗の匂いも。 それがまた、妙にかぐわしい。 そしてやーらかい。 果てしなく、やわっこい。 見里「……んっ……」 もぞもぞと動く俺の顔に、先輩はこそばゆげに喉を鳴らした。 見里「あのー……」 泣き真似を続ける。 見里「ですからっ」 見里「ぺけくんの容姿はともかく目は、すごく深くてキレイなので」 ためらい。 けれど、一瞬で霧散して。 見里「……不意に近づかれると、ドキッとしてしまうんですよ」 太一「本当ですか?」 見里「だから鏡を見ろって言ったんですよ?」 太一「……」 見里「もう泣きやんでくれますか?」 太一「……はい」 断腸の思いで顔を離す。 次にこんな機会が来るのは、いつになることか。 見里「泣き虫だったんですね、ぺけくんは」 太一「……」 見里「世話が焼けますねー」 焼いて焼いてー、と心の中では思う。 焦がしちゃって〜。 見里「うちの弟にでもなっちゃいますか?」 太一「はい」 即決。 太一「では今後ともよろしくお願い致します」 見里「えっ?」 太一「すぐに荷物まとめて、お宅にうかがいます」 見里「はいっ?」 太一「とりあえず身一つですぐうかがいますか? 姉弟はやはり同じ布団で寝るのですか?」 見里「あ、あのですね、ぺけくん……」 太一「実は、ずっと寂しかったんです……ありがとう、ぼくの姉さん……いや、姫ねえさまと呼ばせていただきます」 見里「どっ、どうしよう」 あさっての方角を向いて、先輩は呟いた。 太一「冗談ですよ」 見里「……」 みるみるうちに、表情が非友好的なそれに変わる。 見里「ぺーけーくーんー」 太一「場を和まそうと思って」 太一「だめでしたか?」 泣きそうな顔をしてみせる。 見里「う」 見里「……」 嘆息。 見里「もう……ずるい」 太一「ずるい?」 見里「こっちの話ですっ」 ちょっとぷりぷりしているけど。 許してもらえたらしい。 先輩は、優しいのである。 とかやってるうちに、そろそろ夜がやってくる。 明るい時間は終わって、闇が訪れる。  ・手伝う  ・帰る 太一「それより、部活しませんか?」 見里「……まあ」 先輩がじっと見つめてくる。 見里「手伝いにきてくれたんですか?」 太一「はあ」 見里「そうですか」 ぎょうぜん 凝然と、固定された目線が外れない。 やがて先輩の顔がふっとほころぶ。 見里「ありがとうございます、ぺけくん」 太一「いえ、帝国軍人として当然であります」 敬礼。 彼女はくすくすと笑う。 見里「でも残念ですが、今日はもう夜になってしまうのでした」 見里「楽しい部活の時間は、おしまい」 太一「えー」 見里「すいませんね、一人でやるって決めていたので、時間は流動的だったりするんです」 太一「でも一人じゃ終わらないですよ? 配線だってあるでしょうし」 太一「そもそも電源だって」 見里「平気ですよ」 見里「女は度胸です」 太一「じゃ男は愛ですね」 太一「先輩、ぼかぁ、ぼかぁ———」 にじり寄ろうとすると、 見里「部活しゅーりょーっ!」 太一「ぐぶぅっ」 顔面を片手で突き押され、よりさらに不細工になる俺。 『ぐぶぅ』とか言っちゃってもうマリアナ海溝の底まで落ちたって感じ。 見里「さ、帰りましょう。と言いましても、あなたとわたしは帰る方向も正反対ですけれど、ほほほほ」 太一「……なーんか、釈然としません」 見里「だって、今日はとても楽しかったでしょう?」 太一「んー、どうでしょうねー」 見里「わたしの胸に顔をうずめてる時、お尻触ってましたよね?」 太一「……」 見里「ぐにぐにーって、すごい触り方で」 見里「しかも両手で」 太一「…………」 見里「くすぐったかったです」 太一「〜♪」 あさっての方角に向けて、口笛を吹く。 見里「オ・ト・コ・ノ・コ、なんですものねー」 こめかみのあたりを、ぐりぐりとつつかれる。 けっこう痛い。 ごまかせるはずもなかったのだ。 太一「うう……すいません……」 見里「さて、どうしたものやら」 見里「わたしも、そのくらいの価値はある女だったってことですかね」 見里「それともぺけくんが無節操なだけですかねー?」 太一「いやいやいや、虚無僧ではありますが無節操などには!」 太一「奴らと同列にされては困ります!!」 必死に誤魔化す俺の、緊急ギャグは果てしなく寒い。 見里「ふふふ」 夕刻の、さらに濃度を増したオレンジを背景に、先輩は体をすこし傾けて、言った。 見里「許してあげますから、帰って反省タイムです」 見里「さようなら、ですよ。ぺけくん」 校舎を出て、屋上を見上げた。 アンテナが立っていた。 その隣。 先輩はまだ、そこにいる。 作業していた。 もうじき夜になるのに。 一人で。 この時になってはじめて。 やんわりと、手伝いを拒絶されたのだと気づいた。 夕方になっても、地べたは暑かった。 靴の底から熱が伝わる。 けど耐えられないものではない。 関東の都心部に比べたら、雲泥の差だろう。 風の通りが良いし、湿気もとどまらない。 こんな坂道をいくつもこえていくのでなければ、だ。 さらに蝉のうるささは、暑さを増幅させる。 夏だけ活動していた某バンドばりに、奴らもこの季節に賭けているのだ。 新川「ぎゃっ」 太一「え?」 間近で、誰かが倒れた。 乾いた音がして、足下にステンレスの杖が転がってきた。 太一「あらぁ?」 人が倒れている。 近寄ってみた。 太一「……あの、平気?」 新川「あ、すいません、平気です」 こういう時、日本人はすぐ平気平気と言う。 実際はどうだかわからない。 急に腹が立つ。 太一「本当に平気なのかよ! そんな一瞬で平気かどうかわかるものかよ!」 新川「お、おお……ああ」 その日本人は圧倒されてカクカクとうなずいた。 太一「複雑骨折してるかもしれないだろー!」 新川「見るからに折れてないが……」 太一「人類をみくびった報いを受けさせてやる!」 新川「なんの話だよ!」 新川「ま、とにかく怪我はないから」 そいつは苦笑しつつ身を起こす。 杖を渡した。 新川「あ、悪い」 太一「俺のせいだし、いいけど」 太一「怪我は?」 新川「ないみたいだ」 杖をついて、少しバランスを取る。 片足が不自由なのか……。 太一「骨折?」 新川「だったらいいんだけどなぁ」 屈託なく笑う顔が、穏やかだった。 苦労した人間の顔。 新川「あれ、おまえ……その髪って」 太一「ああ、これ?」 自分の頭髪をつまみあげる。 太一「カツラじゃないよ」 新川「いや、疑ってないし」 新川「けど染めたのか? 根本まで白いな」 太一「違う。天然もの」 新川「へー」 新川「まっしろじゃん」 そうなのだ。 俺の髪の毛は、もうずっと前から純白。 綿毛みたいな白だと、ある人に言われたことがある。 老衰した白ではない。 艶を保った雪白の髪。 薄気味悪いほどに自然な白髪。 ……俺が人目を引く、一番の理由。 二番目の理由は、顔とのギャップなんだろう。ちぇっ。 新川「あ、悪い。気にしてるのかな」 でも、こいつはいい奴だな。 気配りを知っている。 だからこちらも気配る。 太一「いいや、ちっとも」 太一「昔はちょっと。けどガッコ、そこだから」 新川「ああ……群青学院?」 太一「そ」 新川「俺もそこに通うんだよ」 そいつは破顔した。 太一「お、歳は?」 日本人は自分の生年月日を述べた。 同い年だ。 そして、お仲間、か。 太一「よろしく頼む」 新川「こっちこそ。いろいろ教えてくれよ」 新川「俺、足が片方あんま動かなくてさ」 太一「……そうなんだ」 新川「精神的なものなんだよ。怪我はずっと前に治ってる」 太一「大変だなー。いつから?」 新川「ずっと前。ま、天然ものだな、こっちも」 新川「ほら、太さが違うだろ?」 ジーンズを持ち上げて、足首を見せた。 太一「うわ、すご」 新川「ぜんぜん使わないからさー、筋肉がなくなってんだ」 太一「やばいよー、鍛えろよー」 新川「ほとんど動かないんだって。一応、手動でちょっとやってるけど」 新川「面倒でさ」 太一「おいおい!」 新川「あははは、ジョークジョーク」 太一「おまえ、さては自虐ネタの使い手だな」 油断できない男の登場である。 新川「なんだよそれ」 新川「あの学校、いいとこだといいなあ」 太一「いいとこだぞ」 太一「俺たちみたいな者には」 新川「そりゃいいや」 太一「かわいい娘、多いぞ」 新川「マジっすか?」 まともな会話できないのも多いが。 太一「特にまちこ先生がいい。最高」 新川「名前だけでいいな! はやく見てー」 太一「今度、俺の秘蔵まちこ先生アルバム見せてやろう」 太一「A級なんだ」 新川「A級? 最高ランクか?」 太一「いや、上にSがある」 新川「うわ、俺と一緒の分け方だ……」 太一「お、おまえもかー!」 なんなんだこのナチュラル気の合う男は。 新川「OK、なんとかやっていけそうな気がしてきた」 太一「群青はうまいしエロいしおおらかだぞ」 新川「やべぇーっ、エロいかぁーっ、そりゃますますお盛んな人生が開けてきたーっ!!」 太一「行けーっ!!」 新川「おーっ、行くぜ!」 新川「ていうかはじめて会った気しねー」 太一「俺も、おまえとはいつか決着をつけないといけない気がする」 新川「受けてたってやるよ」 自信まんまんに言う。 新川「……その前に、まちこ先生のデータくれな」 太一「OKだ戦友」 太一「人種は違うが頑張ろう、ジャパニーズ」 新川「……いや、おまえも日本人だろ、どう見ても」 これが、俺と新川豊との出会いだった——— 太一「ふう」 テーブルの上に、メモが置かれていた。 『夕食あるかも』 太一「わーい、行く行くー」 自分で用意しないですんだ。 三分で着替えると、いそいそと彼女の家に向かうのだった。 夕食は、おいしゅうございました。 夜自室。 蝋燭に火をつける。 独特の輝きが、室内を照らす。 蝋燭が好きだった。 生の火に、強く惹かれた。 こうしてぼんやりと揺らめく炎を見ていると、心が囚われて、いつまでもいつまでもまどろんでいることができた。 以前、それで前髪を焦がしたこともある。 ぶっちゃけ三分前のことだ。 太一「……焦げた……ちくせう」 泣きそう。 とにかく日記だ。 分厚い日記帳を開く。 人生の記録は、大切だよな。 学校に行った。 人がいないのにと思ったが、皆は来ていた。 授業など行われるはずもないので、ぶらぶらした。 冬子がやけにつんけんしていた。 状況がつかめず、カリカリしているのだろう。 屋上ではみみ先輩が部活。 放棄されていたアンテナを組み立てていた。 単純に据え置きで組み上がっていくものでもない。 大変な作業だ。 けどその大変さが、先輩を救う。 廊下を歩いていると、美希が掃除をしていた。 先輩に部活があるように、美希には掃除があるのだろうか? わからない。 人類滅亡という危機的状況が美希を覚醒させたのか。 俺はとうとう美希に一本取られてしまった。 これはゆゆしき問題ですぞ、校長! だが弟子が腕をあげたことは、素直に嬉しい。 師である俺が抜かれる日は近い。 他にもいろいろとあったが、全体的に良い日だった。 桜庭に押し倒される夢を見た。 太一「……シュールすぎる」 だいたいあいつに、人を押し倒す度胸なんてあるはずないのだ。 朝食が用意してある。 メモもあった。 『しっかり食べて行ってらっしゃい』 美人でキャリアな睦美おばさんは、料理もうまい。 忙しくて家にはほとんどいないけど。 頭が下がる。 お言葉に甘えて、分厚いサンドイッチを野菜ジュースで流し込んだ。 時間がない。 残りはラップに包んでポケットに入れた。 途中で食べていこう。 しばらく歩いていると、 桜庭「あぎゃらおーーーーーーーーっ!!」 桜庭の悲鳴だ。 わりと近い。 犬の吠え声と、悲鳴がさらに重なる。 遠ざかっていく。 太一「なるほど……」 得心した。 と、そこに——— 遊紗「はれ? 太一さん?」 太一「おはよう」 遊紗「あ、おはようですっ」 ぺこりと頭を下げる。 近所に住む美少女の遊紗ちゃん。 上見坂いい街。 説明不要なほど可愛い遊紗ちゃんの、両手にカレーパンが揺れていた。 二人で並んで歩き出す。 別に今日にはじまったことでもない。 なにせ同じ学校に向かうのだから。 後ろから、『い゛っでら゛っしゃーい!!』というハスキーな声が聞こえた。 遊紗ちゃんの母君だ。 ちょっと重くていらっしゃる。 が、毎日楽しそうに生きておられるから、よしとしよう。 平凡な家庭に生まれた美少女。 ただ一つ難点があるとすれば、世間を知らなすぎること。 そんな遊紗ちゃんの、異性の先輩として一番身近な俺に課せられた責任は小さくない。 遊紗「いってきまーす!」 手を振り返す、その顔に反抗期の陰もなく。 どころか、第一次性徴さえまだなのではないかと思われる節もある。 この真っ白なキャンバスを俺色に染めあげたいと思ってしまうのは男として至極当然のことだが中等コースの一年で身長は前から三番目で—— 憶えたての敬語がたどたどしくも初々しい遊紗ちゃんの純正は宝石にも増して煌びやかで我が妄想も汚すか否かの瀬戸際で—— いつも切なげかつ悩ましげに揺れているのであるがその反復思考自体すでにペド狂人のものであるという自覚はある。あるんだってば。 ま、とにかく揺れているのだ。 そう、遊紗ちゃんが手に持つカレーパンの袋のように。 太一「カレーパンだね」 遊紗「です」 歩くたびに前後にゆらゆら揺れる。 両手を幽霊みたいに掲げて、誇示するかのように進む。 太一「それは……朝食?」 遊紗「あの、さっきそこに桜庭さんがいて」 太一「うん、いたね」 遊紗「会いましたか?」 太一「いや、形跡があった」 遊紗「けいせき?」 太一「ま、俺が来たときにはいなかったけど」 遊紗「困っちゃいました」 遊紗「カレーパンあげようと思ったのですけど」 餌付けしようとしてたらしい。 太一「あいつ、コンバットに嫌われてるからさ」 遊紗「吉田さんちの猛犬コンバットですね」 太一「やつは凄いぞ。自力で鎖の繋がった楔を引き抜くことができる」 太一「外出したい時に出ていき、戻りたい時に戻るのだ」 遊紗「コンバットは一般のひとは攻撃しませんよ」 太一「本物の極道ってのはそういうものさ」 遊紗「ごくどう……だったのか……」 太一「今は恰幅が良くなってしまったが、奴には軍人の血が流れてるからな」 太一「人間で言えば、戦争帰りの古き良き親分といったところか」 太一「しかし桜庭にだけは攻撃をする」 遊紗「不思議です」 太一「不思議だねぇ」 ゆったりとしたペースで歩く。 遊紗「これどうしたら……」 遊紗「おなか、すいてますか?」 太一「一個ずつ食べようか?」 遊紗「はい」 二人でカレーパンを食べた。 太一「ガッコー慣れた?」 遊紗「まだちょっと」 太一「いじめは?」 遊紗「全然ないんです! よかったですー!」 太一「だろうねぇ」 天下群青学院。群青上等である。 太一「もし何かあったら、あたしには高等コースに知り合いがいっぱいいるんですますー、とか言って牽制してやりたまえ」 遊紗「はい」 超嬉しそう。 遊紗「もう、ですます、とか言いませんけど……」 照れる。 太一「はっはっは」 昔ちょっとからかったのを根に持ってるな。 太一「担任は榊原先生だっけ?」 遊紗「はい」 太一「いい先生だよ。君はついてる」 趣味は美少女フィギュアとちょっと終わりかけだが。 遊紗「あはあは、どーも」 遊紗「……クラスのみんなも一生懸命生きてて、わたし楽しいです」 太一「そっか」 遊紗「おかーさんもいてくれるし」 太一「だな」 太一「いざとなったらあの人が出張るか。いや遊紗ちゃん、きみの生活安泰だ」 遊紗「それと……あの……」 太一「ん?」 遊紗「先生が、交換日記しろって」 太一「そんな授業あったなあ、昔」 交流HRだっけ。 太一「俺、クラスであぶれちゃってさ、高等コースの人とやったよ」 遊紗「あ、わたしもあぶれました」 太一「え?」 遊紗「うち、奇数なんで」 太一「ああ……じゃ先生と?」 遊紗「いえ、あの、それでです」 鞄の中から、ごそごそとノートを取り出す。 遊紗「太一さんに、お願いできませんか?」 カラフルグリーンのノート。 ほのかにミントの香り。 太一「よし、やろう!」 両拳を突きあげて叫ぶ。 遊紗「……」 太一「どうしたのだ、娘」 遊紗「は、え、あの……いいんですか? もっとよく考えなくて?」 太一「無論だ」 遊紗「あっさり……」 太一「そのノートが日記? もう第一回目は書いてあるの?」 遊紗「は、はい、いろいろと」 太一「いろいろと?」 性徴未満の美少女のいろいろ。 この駄目な単語の並び方が、俺をたやすく狂わせる。 だが遊紗ちゃんの前では、少しでも格好をつけて好かれなくては。 名付けて理性背水の陣である。 太一「それは楽しみだね」 前髪を『ふぁさぁっ』と払う。 少女のまなざしがじっと我が白髪に注がれる。 気がつくと、よく顔やら髪やらを見られている。 そういえば以前、コ○ルトな小説に出てくる王子様が確か白髪の美形だったとか。 熱く語っていた。 してみると俺は、王子様とイメージしているのだろうか。 だったらいいなぁ……。 いや……顔がさ……ダメじゃん……。 所詮は願望に過ぎない。 遊紗「ちょっと恥ずかしいです……」 太一「真面目に書いたことを笑ったりしないよ」 遊紗「……」 お、今のはポイント高かったんじゃないか? 美希では耳年増にさせすぎてちょっと失敗したからな。 俺の底も割れてしまったし。 今じゃただの遊び相手と化してしまった。 シット! 思い返せば返すほど惜しいぜ! 今度こそうまくやって、あわよくば据え膳の美処女だ(意味不明)。 理性理性、紳士紳士。 太一「それ、受け取ってもいいかい、フロイライン?」 遊紗「風呂いらいん?」 太一「サマーウップス」 つい難しい単語を使ってしまった自分に対し、常夏仕様で戒めの言葉を吐いた。 太一「可愛いお嬢さんってことさ」 少女の涙を優しくぬぐう。 遊紗「どうしたんです? わたしの目になにかついてましたか?」 泣いてなかった。 太一「愛しいお嬢さんってことさ」 遊紗「え……」 平然と仕切り直す俺。 遊紗ちゃんの顔から、洗い落としたように表情が消えた。 そして薔薇が咲き誇るほどに赤々とした羞恥の色に———染まらず、 遊紗「ぐじゅんっ!!」 遊紗「ぐじゅんっ!!」 くしゃみをした。 濁ったくしゃみだった。 遊紗「あ、ごめんらはい……ぁ」 最後の『ぁ』は敏感な部分を擦られてついつい漏らした桃色清純吐息では断じてない。 彼女の目が、あるものを注視したためにこぼれた、小さな驚きだった。 俺と遊紗ちゃんの間に、橋がかかっている。 片方は俺の制服の、ちょうど腹部あたり。 もう片方は、遊紗ちゃんの鼻。 つまり。 遊紗「は、はれ?」 鼻汁橋できた。 粘度の高い液体が、 のびろーん と吊り橋をかけていたのだ。 俺の推理はこうだ。 くしゃみをした拍子に、打ち出された鼻汁弾は新幹線よりも速い初速で(本当)こちらの制服に打ち込まれた。 粘着力の強い液体は、弾丸に引っ張られて少女の鼻腔から引きずり出され、普通なら切れてしまう接続部を運良く保持し、橋の完成と相成った。 遊紗「…………」 その事態が、ようやく遊紗ちゃんにも理解できたようだ。 顔色が青ざめていく。 身動き一つ取らない。 いや、取れないのだ。 うら若すぎる彼女にとって、己のはなぢるを異性の……しかも快男児と誉れ高い貴公子(俺幻想)の……衣服に顔射してしまったのだ。 ※一部、不適切な表現があります。 下手をすれば、 『はなぢる姫』 『はなぢる子ちゃん』 などの極めて小児的かつ残酷さに満ちた称号を授与されかねない。 子供はいつだって笑う対象を求めている。 相手が弱ければ弱いほど。 どこまでも、どこまでも。 遊紗「あぅ……あっ、これは……あの……っ」 極度の緊張によるものか。 見開いたままの瞳に、一気に涙が溢れた。 いかん! この子に新たなトラウマを植えつけてはならない。 アトランティスの血を引く美形白髪王子の出番だった。 少女が錯乱するよりはやく、冷静にハンカチを取り出す。 それでまず、遊紗の鼻先を包んだ。 遊紗「……うゅ?」 変な声をあげる。 根本を断ち切ってから、幾度か折り返して鼻下をぬぐう。 それから鼻汁橋を回収しつつ、自分の制服を軽く拭いた。 ハンカチをポケットに戻す。戻そうとする。 遊紗「あ、だめ、だめですよっ!?」 太一「んー?」 遊紗「そんなききき汚いっ、あ、それはだめ、捨てないと、あ、あのっ」 遊紗「べんしょーしますっ!」 太一「いいんだよ」 朗らかに笑って。 太一「さ、行こうか」 遊紗「だから、その、ごめんなさっ、でもハンカチっ」 今度こそ、親指の腹で涙をぬぐいつつ。 太一「可愛い後輩を、困らせたままにしておくようなハンカチじゃないんだよ」 遊紗「……っっっ!!」 少女は大きなショックを受けた。 太一「弁償はいいけど、風邪には気をつけた方がいいな、遊紗君」 ぽん、と頭を軽く叩いて、歩き出す。 遊紗ちゃんは、茫然としていた。 太一「ヘイ、学校だ、お嬢さん」 遊紗「……は」 遊紗「はいっ」 小走りで駆けてきて、 遊紗「……」 太一「ん?」 手を握ってきた。 耳までまっ赤にして、俯いたまま。 可愛いもんだ。あれだけのことで。 ハンカチ一枚で射止められた少女の好意を、べつだん安いとは思わなかった。 だが同時に彼女におもいっきり子供生ませたいと思ってしまった俺は脳が腐っていること間違いなかった。死ね、死んでしまえ。 冬子がいた。 というか、いっつも一等賞じゃないか、こいつ。 太一「おはよ」 冬子「……(ぷいり)」 シカト? シカトですか。 太一「パンツ……」 冬子「くどい」 太一「パンツ買ってくんない?」 冬子「どーして私があなたのパンツを買わないといけないのっ!」 机をどついて立ちあがる冬子。 太一「朝からホットだね」 親指を立てる。 冬子「……」 冬子は親指をぐっとつかんで、ごきっと横に折った。 太一「ぎえええええええっ!!」 太一「あほーっ、折れたらどうするのだーっ! 自慰もままならないではないかーっ!」 危うく手首を返したからよかったものの。 冬子「話しかけないで」 太一「昨日のテレビ見たぁ?」 冬子「話しかけないで!」 太一「……むぅ」 話しかけないでと辛口に言われると、話しかけたくなる。 話しかけると、また、話しかけないでと辛口に言われる。  ・話しかける  ・部活に行く しばらくそっとしておこう。 冬子は最近、ずっと変なままだ。 変なまま固定されてしまっている。 こういう時は、先輩とお話でもして心を濯ぐのだ。 美希「あ、先輩ー」 太一「よっす」 壁に寄りかかって所在なげにしている美希と遭遇。 美希は見た感じ、それほどショックを受けていない。 そう振る舞っているのだろうけど。 太一「ちゃんと食べてるか?」 美希「は、部活のおかげでなんとか」 太一「……もういっこの部活な」 美希「はい」 正式名称・生命維持活動部だ。 太一「……霧ちんも参加してるんだよな」 美希「はい。立派です」 太一「うむ、立派だ」 美希「先輩が参加してないのが不思議ですね」 太一「んー、そら君。霧ちんは俺のこと———」 と話していると、霧ちんがトイレから出てきた。 太一「トイレ流したか?」 美希「きききき禁断の問いをーっ!?」 ギリッ 霧は歯ぎしりした。 霧「……黒須太一ッ」 呼び捨てかい。 そして怨敵扱いかい。 霧「…………」 冷たいまなざしを向けてくる。 霧も相変わらず、いつも通りのままだった。 ちょっと安心。 太一「霧や、あいかわらず美しい肌だ」 指をのばす。 霧「触らないで下さい!」 手の甲でしなやかに撃墜された。 ぞくぞくぞくぞくっ 太一「……いい」 霧「……は?」 太一「いや」 前髪を払う。 美希「あわわ、けんかしちゃだめですよ」 太一「喧嘩など、そんな野蛮なことはしないさ」 太一「もっと優美に決闘といきたいものだ」 霧「……それってわたしに勝負をふっかけるということですか、先輩?」 太一「ふむ。夜の決闘であれば」 美希「ぽっ」 霧「行こ、美希」 霧は美希の腕を引いて、踵を返した。 太一「行こ行こ、失礼しちゃうわ!」 並んだ。 三人はとっても仲良し。 菜の花を思わせる、華やか三姉妹! これはそんな三人娘の、うつくしい愛の物語♪ ……なわけねぇ。 霧「先輩……」 太一「気づかれちゃったっ♪」 霧「気づかないのは脳みその軽い先輩だけです」 太一「だが灰色だぞ」 霧「ぶちまけてみないとわからないですけどね」 太一「わはは」 霧は笑わなかった。 霧「……こんな状況で、脳天気なもんですね」 太一「いやなに、そう誉めるな。照れちゃうではないか」 霧「……」 霧「でもわたし、知ってます。だから」 太一「ほえ?」 霧「絶対に気を許すつもりはありませんから」 立ち去る二人。 太一「……はー」 なんだろう。 あま切迫した……雰囲気は。 両名の背中に呼びかける。 太一「あー、二人とも」 立ち止まり、振り向いたのは美希だけだったが。 太一「あー……」 言いよどむ。 太一「くれぐれも体調には気をつけるんだぞ」 無難なところ。 確かに文明と切り離された今、体調管理は切実だしな。 美希が元気良く挙手し、霧がちらりと目線を流した。 アンテナの組み立ては遅々として進んでいないように見えた。 太一「先輩?」 見里「……んあ、んんあ?」 太一「朝から寝てるったぁどういう了見っすか」 見里「ううん、寝てませんよ?」 よたよたと身をもたげた。 見里「とりあえず、おはようございます」 太一「おはようございます、先輩」 太一「日中にここで寝こけると陽光で死にますよ?」 見里「あ、はい、そうですね、気をつけました」 スカートの裾を持ち上げて眼鏡をふく先輩。 ……パンツ見えてるし。 寝ぼけてます、この人。 まさか徹夜して泊まったんじゃなかろうな? それを問う勇気はなかった。 むっちりとした太股。 昨今の日本はといえば。 世間的な規制&風潮に逆らってロリまっしぐらロリスキー。 一部メディアにおいてはロリがなければ許されない有様だ。 この黒須太一、そんな世の中にひとこともの申す! それは病気です。 幼い子も可愛いが、この太股と淡い水色の股布もまた良いものなのだ。 見里「にゃむっ……」 眼鏡を拭きながらあくびを噛み殺す。 素だ。 素の先輩である。 スカートがぱさりと元に戻った。 先輩は眼鏡をかけ直す。 見里「眠いですよ……」 太一「でしょうな」 見里「えーと、なんでしたっけ?」 太一「仕事ください」 見里「どうして背中で語りますか?」 太一「立体的な問題によって、と今は申し上げておきましょうか」 見里「哲学的、とても哲学的です」 本当はひどく肉体的かつ低俗な理由なのですが。 太一「部活に参加するんで、仕事ください」 見里「ああん……」 先輩はブツブツ呟きだした。 聞き耳を立てるが、いまいち聞こえない。 断片的に、 見里『悩んでいたのが馬鹿みたい』 見里『逃げてたわけじゃなくて』 見里『犬みたい』 見里『なついて』 見里『別に邪魔ってことは』 見里『おつきあいする対象としては』 見里『やっぱりこっちが年上で』 見里『ひくっ』 最後のはしゃっくりだ。 なんか変だぞ? いつも微妙に変な素敵レディだけど、今日は壊れすぎだ。 太一「せ、せんぱい?」 見里「原稿……」 太一「なんと?」 見里「げんこーやってくださーい」 とろんとした瞳でそう言う。 太一「原稿って、なんのです?」 見里「群青学院放送部の初回放送用の原稿です」 太一「ああ、要するにそのアンテナでゆんゆん飛ばすための放送用台本ですか」 見里「そうです。求められるものは、知性に感動、涙と真実。聞く者の耳朶を打ちどこまでも爽やかにさせる古き良き若者文化の再来を我が放送部の手でいや声で実現しようではありませんか!」 先輩の足下に酒瓶がいっぱい転がっていた。 太一「おおおおおおおっ!?」 見里「モラルの欠如、行きすぎた利己的な個人主義、自分が怠惰に過ごすために利用される基本的人権、このようないい子ハザードによって汚染されている現代社会に、 私たち若者は互いに築き上げる交友を持つことができるのでしょうか? 我が群青学院放送部は、この疑問に対して満足のゆく答えを提供することができると考えています」 太一「日本語うまいですね」 見里「くっくっくっ……」 笑うし。 握りしめられていた拳が、ふらふらと宙をさまよい、ポケットに落ちていった。 出てきた。 ワンカップを握りしめて。 太一「あーあーあー……」 もう滅茶苦茶だ。 ぐいと飲み干す姿が、改めて素敵だった。 おやじだ……。 見里「げんこーを、書くのです」 座った目で言う。 太一「は、はい……」 見里「〆切は日曜日です」 太一「はい」 見里「よろしい!」 見里「デハワタシハ、ソンナ原稿ヲ書クアナタノコトヲ頼モシク思イツツ、ココデヒトトキノ眠リニツキタイト思イマース」 太一「なんで外人か」 見里「うー」 床に寝そべる。 太一「あかんだろ!」 見里「くふふふふふふっ」 太一「先輩、先輩ってば」 見里「すかこー」 寝たか。 あの真面目な先輩がお酒を……。 太一「あの、とりあえず……保健室で寝るとか」 見里「ぺけくん、よろ子……」 よろしく、を擬人化した言葉で、先輩はすべてを放棄した。 太一「もう、だっこして運んでいっちゃいますよ?」 見里「ZZZ……」 太一「おっぱいとかおしりとか触っちゃうかもです?」 太一「起きたらパンツがなくなってたりするかもしれませんよ?」 太一「目が覚めたら……なんか小俣がスースーする、なんだろう……やだっ、わたしパンツはいてない? どういうこと? なにかふしだらなことしちゃったの? うそぉ……そんな……やだ……あっ、濡れちゃってる……どうかしちゃってる、わたし」 太一「どうかしてるのは俺だっつーの!」 自分の側頭部を殴った。 太一「まったく……」 仕方ない人だなあ。 とりあえず先輩の上体を起こす。 くってり。 首がうなだれた。 本気で寝ている。 太一「……あああ、なんだか……なんだかいけない気分に……」 ぎゅっ 抱きしめた。 胸元で潰れる、ふたつの風船的感覚。 太一「感動した」 次の感動は……。 背中のあたりをごそごそとまさぐる。 ブラのホックを発見。 外す(所要時間0.5秒)。 ブラそのものをずらして、前止めの隙間から、するするするーっと抜き出す。 人肌のそれを、己の鼻先に添える。 い・い・に・ほ・い。 太一「……介抱する報酬、確かにいただきましたよ、見里先輩」 ポケットにしまい、先輩を背負う。 けっこうずっしり。 でもほどよく乗ったふたつの感触がたまらない。 特に胸が。 シャツ一枚を隔てて生胸。 鼻息も荒くなるし、テントも設営される。 テントマンの誕生だった。 太一「さ、行こう」 どうせ見る者もいまい。 いかんいかん。 背中に弾む感触があまりにも素晴らしくて、無意味に学校中を巡ってしまった。 さて。 保健室に人はいない。 あいているベッドに先輩を寝かせる。 太一「おやすみ先輩、良い夢を」 太一「……」 ぶちゅう 太一「さてと」 ようやっと、一日のはじまりだ。 ……いや、ほっぺだぞ? 相変わらず、睦美おばさんの姿はない。 かわりにメモが置いてある。 『夕食がないこともない』 太一「行く行く〜」 うきうき家を出る。 夜自室。 夜が暑苦しくないのが、田舎のいいとこだ。 窓から滑り込む風はほどよく冷たく、肌に優しい。 今日は書き物がいっぱいだ。 日記はもちろん、原稿も書かないと。 原稿から片づけるか。 太一「……ふーむ」 初回放送にふさわしい文面、か。 太一「…………」 難。 書いては消し、書いては消し。 一進一退の攻防。 一時間後、机に突っ伏す。 おいおい、進んだの二行だけだよ。 『我々は、群青学院放送部である。この放送域はただいま我らによって占拠された。全員すみやかに武装を放棄し———』 太一「ダメだダメだ!」 原稿用紙を破り捨てる。 受けを狙いすぎて、全然趣旨から外れてしまっているっっっ! 真面目でいいんだ。 ちょっと微妙なおもしろみを加えようとして、おかしくなった。 太一「やめだ」 今夜は気分が乗らない。 日記を書こう。 感情を対象化せよ! カレーパンのカレーをごはんにかけて食べだしたのは誰なんだろう? そんな疑問が、いつも僕を差違なむ。 ※差違なむ=太一の誤字。苛むという意味を、差違による違和感と結びつけた論理的な間違い。 太一は同様にタートルネックをトータルネックと間違えて認識しており、首をトータルに包むからトータルネックなのだと今なおかたく信じている。 わかたれることのない路を、幾度となく繰り返し往腹してきた、日々の終わりにわずかなりともむなしさを感じてならない。 ※往腹=太一の誤字 ボードレールは言った。 『神は死んだ』と。 神の存在を疑うことはたやすいが、神の悪戯というものは存在し否応もなく人生に降り注ぎ毎日通う路にも似て直線的であると信じていた人生に、突如として分岐点を儲けようとするのだ。 ※儲けよう=太一の誤字 たとゑば教室で、意固地な女性と無毛な会話を繰り広げた時。 ※無毛=不毛の間違い たとゑば廓下で、仲の良い友人と疎遠な友人のふたりに同時に会った時。 そしてまたその二人同士が友好的な関係を築いていたとき。 私はそのどちらに対しても、×××(塗りつぶされている)の屹立する意志を感じずにはいられずまた彼女たちが等しく有する神秘の××××で×××に鼻寄せ口つけて××××の際には惜しみない愛とともにあるのであり—— ×××を××××することについては×××しまいには××××××××××××××××が××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。 『語りえないことについては、沈黙しなければならない』 これはキルケゴールの有名な言葉だ。 霧嬢の奥ゆかしい中性美と、それに対する私の正当なる熱情についての言及は、ここまでにしておこう。 人生の喜びはこれだけではないのだから。 そう。 屋上で出会った我が人生の先達であり、母なる包容力をもってして接し慈しんでくれる見里嬢については、いくら書いたとしても私腹は尽きない。 ※私腹=太一の誤字 まず何と言っても太も(以下、検閲) そして私の手には、彼女の身につけていた胸布が残された。 すでに体温の失われたそれを介して呼吸をする時、仄かな少女のスメルは私をまたたくまに幻想的な幻想へと連れ去るのであった。 〜FIN〜 決まった。 詩情に溢れかつ哲学的。 芸術の都ロンドンに生まれていればスターダム確実の文才がほとばしった。 いやあ、ただ小難しい言葉を使うだけで、気取れるものだなあ。 タームとかトートロジーとかアイロニーとか、そういう専門用語も決して平易な日本語に訳すことなくバンバン使っていかないとな。 太一「んっ」 伸びをしてリラックスする。 作家というのも悪くない。 ちょっと現代日本では過激すぎて検閲した部分もあるが。 そうだ、原稿もこのノリで行こう。 ペダントリーの装飾をもって絢爛たる放送絵巻を綴りだし、知識階級の聞き物たる高尚かつ繊細な原稿にしてみせる。 俄然やる気になって、再びペンを取った。 教室に来ると、誰もいなかった。 いつも自席でむっつりしている冬子の姿はなかった。 太一「さて、と」 鞄から原稿用紙を取り出す。 原稿は一晩でできてしまった。 さっそく見せてOKをもらおう。 屋上へ。 見里「ぺけくん」 疑惑の視線に出迎えられた。 太一「おや、部長」 太一「なぜあなたは胸元をガードしているのです?」 見里「……それは……」 赤面した。 見里「あの、昨日のこと、わたしよくおぼえてないんですけど」 太一「でしょうねえ」 見里「ま、まさかまさかっ」 太一「ど、どうしたんです?」 すっとぼける。 見里「…………っ」 うつむいて、懊悩《おうのう》している。 しかし胸を覆った腕は、微塵も揺るがない。 太一「それよりこっちに行きましょう」 先輩の手首をつかんで、引く。 見里「きゃわっ!?」 叫んで焦る先輩。 見里「だめぇぇぇぇっ」 太一「へ?」 見里「すけ……」 太一「すけ?」 見里「すけ、すけ……」 見里「すけーぷごーと」 太一「スケープゴート」 頭の中で、羊が一頭、草むらに突っ込んだ。 見里「スケープゴートは、いやです」 太一「俺だっていやですよ」 見里「気をつけないといけませんねっ」 太一「はあ」 太一「でも俺、先輩をスケープゴートにしたかったわけじゃなくて、日陰に移動したかっただけなんすけど」 見里「あっ、そうですね、じゃあそうしましょう」 ほつれてるなぁ。 移動。 太一「ところで先輩、昨日はお酒飲んでましたね」 見里「あ、え、あぁ」 見里「……スミマセン」 萎縮した。 太一「大変でしたよ」 見里「まさかわたし……酔って……たいへんなことを?」 よし、かかった。 太一「ええ、それはもう口にはできないような破廉恥プレイを」 見里「っ!?」 先輩の目が横長の『×』マークになった。 大絶句である。 見里「ああああっ!」 太一「でもご安心を。僕がうまく処理して、人目につかないよう片づけておきました」 見里「……ああ、そうだったの……どうも、ありがとう」 釈然としないものを残しつつも、先輩は頭を下げた。 見里「でもわたし、いったいどんな醜態を……」 太一「聞きます?」 見里「……」 迷。 太一「なんでしたら責任取りましょうか?」 見里「はい?」 今度は目が点になった。 太一「いや、聞いちゃったら、そういう気分になるかなって」 見里「はわわわ」 太一「いや、冷静に考えるとたいしたことじゃないんです」 見里「そ、そうなの?」 太一「聞きます?」 ずいぶんと長い時間、先輩は寄り目で考えていた。 見里「…………うん」 太一「本当にたいしたことでは」 太一「あそこのアンテナ用の針金を使って、ちょっと全裸リンボーダンス撮影会をこっち向きで」 見里「終わった」 ぺたり、とへたりこむ。 見里「拝啓、春眠の候、その後いかがお過ごしでしょうか……」 架空の手紙を読み出した。 太一「先輩、しっかり」 見里「……これ以上、人生が最悪になるなんて思ってませんでした……」 太一「うまく処理しましたんで」 見里「それで……ブラが……」 太一「もしかして、家に帰ってらっしゃらない?」 先輩は無言で頷く。 太一「じゃあ、今は……目覚めたときのままなのですか?」 再度、こくり。 太一「じゃあ」 ごくり、と唾を飲み込む。 先輩は今。 薄手の透けやすいシャツの下っ。 はだっ、裸っっっ。 服のッッッ下はッッッッッッ裸ッッッッッッッ!! ……って、そんなこと言ったら、世界中の女子っ娘が服の下は裸である。 ま、要するに……ノーブラなわけだ。 先輩、大きめだからなぁ。 シャツが張っちゃうし、目立つなあ。 なるほど、様子が変なわけだ。 太一「とりあえず帰って水浴びでもしてきたらどうです?」 見里「においますか?」 見里「学校の水で、体だけは拭いてるんですけど……」 あ、いいなー、そのシチュ。 早起きしてれば遭遇できたのだろうか。 どうしてそういうイベントに流れ着けないかなあ、俺は。 そういうところが駄目なんだよ。エーロー失格なんだよ。 ※エーロー=太一語。エロ面における英雄的存在。 太一「先輩、任せてください」 見里「?」 俺は教室に戻った。 荷物から、スポーツタオルを取り出す。 太一「これで、かわりになりませんか?」 差し出す。 見里「ぺけくぅん」 感動して泣きそうな先輩。 太一「サラシってあるでしょう? あんな感じにすれば、透けないと思いますよ」 見里「なんていい子なの……」 よよと涙を浮かべつつ、タオルを受け取った。 見里「ちょっと待っててくださいね。動いたらめっですよ」 太一「はーい」 先輩は物陰に消えた。 めっ、されたい気分もあるが、我慢した。 太一「……」 どんなめっ、なのだろう。 寄せた乳房の先端、二粒の野いちごでもって先走る竿の先端を「めっ」と……。 太一「ああああ、ばかばかばか! 俺のばかっ!」 数分後。 見里「やー、ぺけくん、おはようございますっ!!」 めちゃくちゃ晴れやかな顔で現れた。 胸を張り張り、 見里「今日も夏日ですね。まだまだ暑さは続きそうです」 太一「ま、まったくですな」 見里「それで、今朝はどうしました?」 太一「昨日依頼された原稿をお届けに参りました」 見里「原稿? 初回放送用の台本、書いてくれたんですか?」 太一「はい」 見里「ぺけくん、すごいです。見違えました」 表情は好意と感嘆で満ちている。 太一「いやあ〜」 俺はロールパンのようにくねくねした。 見里「拝見させてもらっても?」 太一「これにございます」 見里「では」 原稿用紙を渡す。 先輩の瞳が、きっと厳しさを増す。 用紙の上を軽やかに視線は走った。 太一「……」 ほどなくして。 先輩は顔を上げた。 満面の笑み。たとえるならば……聖母。 聖母光臨。 後光を背負って、彼女は言った。 見里「没」 太一「わっふぅーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」 柵ごしに、俺は街に吠えた。 太一「出直してきます……」 見里「期待してます」 すごすごと校舎に戻る。 太一「あ、そうそう、タオルは決して洗わずに返してくださいね」 見里「はい?」 と、先輩が小首をかしげた瞬間。 立てかけてあった様々な資材が、ゆっくりと動き出した。 太一「OH! デンジャラス!!」 見里「え?」 間に合わない! 脚立や鉄針、工具……そんなものが。 一斉に先輩に降り注ぐ。 降り注ぐ——— 見里「……ん……」 先輩が起きた。 太一「良かった……無事で……心配したです」 見里「わたし確か」 太一「ひっく、たいしたことなくて本当に良かったよ……」 太一「姉さん」 見里「違います」 太一「切ないですね」 素に戻り言う。 見里「状況を教えてください」 太一「先輩が怪我をしました」 太一「手当してもらってここに」 太一「で、今目覚めた、と」 見里「怪我したんですか、わたし?」 太一「ちょっとだけ」 見里「えっと……?」 全身をまさぐる先輩。 腕に巻かれている包帯。 あちこちに張られた絆創膏。 見里「いたたたっ、あちこちが痛い……」 太一「全身に軽い打撲とか、あるんで」 見里「……うかつなわたし」 太一「大事がなくてよかったですよ」 見里「……ありがとう、ぺけくん。呼びかけてくれて」 太一「なんの」 見里「さて、じゃあ部活に……」 太一「こらこら、動かないで」 押し止める。 見里「なぜです?」 太一「基本的にはたいしたことないんですけど……」 おもむろにシーツをめくって、スカートもめくった。 むちむちした大腿部が露出した。むちむち。 見里「……………………」 太一「ほら、このむちむちした太股のとこ、ちょっとささったとですよ。だから今日は部活の方も休んでご自愛いただいてですね……」 見里「はふはふ」 ぱくぱくと口を開閉させる。 太一「うわっ、血が滲んじゃってるな」 血。 太一「包帯、かえときます?」 カクカク頷く。 包帯を持ってきて、取り替える。 太一「いやー、それにしても」 太一「色っぽいおみ足で」 見里「自分でやります」 太一「え、ダメですよ。任せてください」 見里「お、お願いですからぁ……」 太一「だって」 太股を見る。 血が滲んでいる。 大変だ。 太一「だって」 こんな綺麗な血が。 流れ出てしまうなんて。 赤い血。 赤。赤。 目眩を感じて、目を閉じた。 開く。 ああ……。 世界はいつだって曖昧だ。 蠢くものたちは、触れるだけで赤くなる。 簡単だ。簡単なことだ。 全ての感覚が強化され、不可視のものが見えるようになる。 可視光域の幅が変わる。 視界はぼんやりと霞み、動くものを敏感に察知する。 唐突に、自分が何者かを忘れる。 意識が切り替わる感覚。 動く。 身体感覚があいまいだ。 どこからが自分で、そうでないかがわからない。 視野の中心に赤い点。 接近してみる。 ノイズ。 何か現象があったらしい。 詳細はわからない。 体感できない。 世界と一体化した、その全能感だけがすべてだ。 ノイズ。 なんだろう、コレは。 世界にあって異質なもの。 赤い点。 ああ。 ああ、わかるよ。 俺は錯誤しているんだ。 目に見えるものが一義的に日常であると決めつけている。 実際はそうではない。 その矛盾が、視野の狭窄と改変をもたらす。 出番を心得た獣が、喜悦に身じろぎをした。 現世とは異なる法則・衝動・配列に従って本能を構築した獣だ。 太一「wwwヘ√レvvwwヘ√~~」 俺は音を発した。 ノイズ。 これは……何? 意識をこらせ。 聞き取れ。 解読しろ。 結線しろ。 定義しろ。 そうだ。 これは音だ。 自ら口にしたものと同種の波。 意識が収束する。音とわかれば、翻訳もはやい。 *********** 美********** 見里*け****ん?* 見里「ぺ*…**ん?」 見里「ぺけ…*くん?」 見里「ぺけ……くん?」 ああ、なるほど。 宮澄見里。 先輩だ。 先輩の言葉。 先輩の赤だった。 見里『いつもお一人なんですね』 だから。 見里『一緒に、部活しませんか?』 攻撃を、禁ずる。 太一「すっこんでろっ!!」 見里「わっ」 視界がクリアに。 太一「…………ん」 頭痛がする。 太一「まったくもー……」 このタイミングで。 血と夕日の組み合わせは、本当に良くない。 泣きそう。 太一「いやー、困ったもんですね。わはは」 見里「しくしくしく」 マイヴィーナス、先輩が泣いていた。 太一「誰だ! 先輩を泣かしたヤツめ、出てこい!」 徒手空拳の構え。 太一「俺のカラデを食らわせてやるぞ!」 見里「しくしくしくしく」 太一「先輩、誰にやられたのです!?」 先輩は俺を指さした。 太一「自分に打ち克つのは克己《こっき》って書くくらいで難しいナァー!!」 見里「ぺけくん? ぺけくん?」 太一「あ……はい?」 見里「あ、いつものぺけくんに戻ってる……」 太一「永久にあなたの愛王子であるところの太一です」 ひざまず 跪く。 太一「ワタクシメのカラデがご入り用ですか?」 見里「カラデとかいうわけのわからない格闘技はどうでもいいのですが……」 見里「さっきのぺけくん、ロボディアンみたいになってて、恐かったです」 ※ロボディアン=見里語。ロボットの意。 太一「太一ロボですか?」 見里「そんな感じです」 太一「錯乱したのです」 見里「……もう平気ですか?」 深くは突っ込まれなかった。 太一「はい、デュアルブートされたマイOSのチェンジはもうクイックにジエンドでございますゆえ」 見里「橋崎先生にぺけくんは英語の成績がひどいと聞いていました」 太一「それより先輩、はやく血を」  ・手当する  ・しない 見里「あ……」 先輩の下肢を(今度は下心なく)白日にさらした時。 出血している部位……に……歯形を見た。 少量の血液が薄く広がり赤い湿気を与えている傷口の、周囲。 何者かが、傷口を食いちぎろうとしたようにも見える。 いや。 そうとしか、見えまい。 太一「……先輩?」 見里「はい?」 太一「……軽蔑、しましたか?」 見里「軽蔑?」 太一「その」 言葉にならない。 自分でさえ、うまく翻訳できない行動と気持ちを、どう釈明したらいいのか。 太一「だから」 先輩がふっと微笑む。 見里「軽蔑するようなことは、なにもしてませんよ、あなたは」 太一「……そう、ですか?」 だって。 傷口を見る。 先輩はそっとスカートで覆う。 見里「おりこうさんなので、不問とします」 見里「部活、手伝ってくれましたし」 太一「……」 太一「手当、させてください」 見里「……はい」 そして俺は、先輩の手当をした。 今度は、発作も起こらなかった。 嬉しかったから。 より上位の感情が、あったから。 見里「くすぐったいですー」 太一「ご、ごめんなさい……緊張して」 見里「包帯まくのへたっぴですねー」 太一「経験なくて……」 見里「く、くすぐったい〜っ」 太一「うううう〜……」 そんな幸せな時間が。 あったんだ——— 見里「あ!」 太一「はい?」 見里「わたしの携帯はどこです?」 太一「携帯、ですか?」 唐突な日常の言葉。 思考が麻痺した。 見里「落としたみたいです」 ひどく困った顔をする。 太一「探してきます。きっと屋上だ」 見里「お願いします」 保健室を出て、屋上に向かった。 携帯はすぐに見つかった。 散乱した資材の間に、転がっていた。 太一「どうして携帯なんて」 些細な疑問。 太一「いや」 すぐにうち消す。 誰だって、何かに頼っているはずだ。 俺がそうしているように、先輩もまたちっぽけな携帯電話に、大きなものを託しているのかもしれない。 太一「これですよね」 見里「ああ、それ」 破顔一笑、受け取る先輩。 見里「ご苦労様。これでチャラですね」 太一「え……?」 笑いきれずに、顔が歪む。 悪い冗談を聞いたようだ。 太一「ずいふん、あっさり許してくれるんですね」 見里「わたしだって群青なわけですし」 見里「それに、またしますか?」 太一「……わかりません。可能性はありますよ」 太一「発作みたいなものですから」 見里「じゃあ情状酌量の余地はあるわけですよ」 太一「……甘い」 見里「え?」 太一「みみ先輩は、甘いな」 太一「俺は安全な年下の男なんかじゃない」 見里「でもやめてって言ったらやめてくれましたし」 そうなのか? 言葉を解することもないはずなのに。 偶然? そうに決まってる。 でも、どうだろう。 太一「このまま先輩と親しくしてたら、いけないのかも……だってそれは」 言葉が途切れる。 静寂の夏。 あまりにも静かで、部活や授業の気配さえ消えていて。 静謐が支配する白い保健室。 世界が黄昏に満ちているのだから、白を基調とする室内は抗うことなく従属し、胎内に抱く二つの異物を生贄とばかりに夕暮れに差し出すはずだった。 夕の色は、一日のどんな時間よりも印象に強い。 すべてを異世界へと変えてしまう、おどろおどろしいもの。 滅びの時間だ。 世界が多重に見える時間。 沈んで、翌日また何食わぬ顔でやってきた大陽が昨日のそれと同一であると、誰が保証できるのか。 毎日一回ずつ、世界が滅び去っているとしたら。 翌日とともに蘇生され、ただ人間だけがそれを知らないのだとしたら。 確認するすべはない。 実際の世界と、人間の認識する世界が、同じだという保証はどこにもない。 なのに今、ただ保健室の小空間だけが、緋色の侵攻から免れているように思えた。 いつになく、世界が鮮明に見ていたからだ。 見里「……完璧な人なんて、どこにもいないじゃないですか?」 見里「誰だって、どこかおかしいじゃないですか」 見里「いちいち欠点や失敗を攻撃していたら、生きていけないです」 見里「ねえ、そうでしょう?」 太一「……」 涙のひとつも出れば、格好悪く格好がつくのだが。 不思議と、激しい情動はなりをひそめていた。 太一「……一人だった俺を、部活に誘ってくれた先輩のことは、ソンケーしてるわけで」 とつとつ 訥々と話す俺。 見守る先輩。 静かに時間がうつろう。 太一「嫌われるのは嫌だから、傷つけたくもなく」 太一「……さっきのことは申し訳ないと思っていて」 太一「でも自制する自信はなくて」 見里「どうすればいいですか?」 太一「え?」 見里「まずどこに気をつけたらいいんです? わたしとしては」 太一「……それは」 冷静に考えれば。 太一「先輩の血を見ないようにすれば」 見里「怪我に気をつけろってことですね?」 太一「はい」 見里「でもわたしはアンテナを組み立てたり、工具使ったり、怪我をする危険に面している」 太一「はい、だから俺がそばにいない方が」 見里「ぺけくんが」 遮って、言った。 見里「力仕事を手伝ってくれるんでしょう?」 太一「……………………」 効いた。 じんわりと、肋骨に包まれた胸の奥を、震わせた。 見里『いつもお一人なんですね』 見里『一緒に、部活しませんか?』 心の中の語録に、一つ、加えられたその言葉は。 圧倒的にあたたかく、やわらかく、力強かった。 自分一人では解決できない悩みを、他人のたった一言が解消してしまう。 そのために、人は互いに通じ合いたいと思うのだった。 言葉で、体で、携帯で。 ……通信で。 ありとあらゆる手段で。 触れあおうと努力できる。 それが人だ。 見里「やっぱり組み立て、手伝ってもらうことにします」 太一「……はい」 気恥ずかしい。 先輩はにこにこと楽しそう。 曜子さんは、俺のことを強力な人間だと言った。 そういう価値の認め方は、好きじゃない。 違う。 俺以外の人間は、えてして凄い。 いつだってみみ先輩は、俺をいい気にさせたり手玉にとったり魅惑したりする。 そんなこと……自分ではできない。 そばにいたい。 時が許す日まで。 終わりの日まで。 そしてまだ、時間はあるのだ。 太一「おねがいします」 見里「ん」 頭を下げて、 先輩の手がぽんと置かれて、 こそばゆくて、 やっと笑えて、 これで、もとどおり。 涙が出るほど嬉しかった。 先輩の手が、カーテンをあける。 一瞬で、保健室はオレンジ色に食べられた。 友貴「太一ー」 廊下を歩いていると、呼び止められた。 太一「お、まだいたの?」 友貴「そっちこそ」 友貴の顔が能面のようだった。 微妙な距離を置いて、ふたり。 太一「部活だったんだよ」 太一「最近部活に出てる」 友貴「……どうしてまた?」 太一「いや、目的があっていいじゃないか」 友貴「部活って、例の与太話?」 群青学院放送局の開局。 太一「与太じゃないよ、たぶん」 友貴「太一がそういうことするのは……なんか、まあ、理由あってのことだろうけど」 友貴「他に誰が参加してんの?」 太一「部長」 友貴「……だけ?」 太一「そう」 友貴「それ部活じゃない……」 太一「部活と思えば自慰だって部活だ」 友貴「……最近、いろいろと動いてるのは知ってたけど、部活とはね」 肩をすくめた。 太一「そっちこそ。今なにやってんだ?」 友貴「部活」 太一「わはは」 太一「……え、意味わからん?」 友貴「本物の部活」 友貴「暇だったら参加してくれよな」 太一「そりゃいいけど……」 友貴「……裏切られるぞ」 ぽつ、と言う。 太一「誰に?」 友貴「部長に」 太一「なぜ?」 友貴「だから、あまり親しくしない方がいい」 背を向けて、友貴は立ち去る。 様子が変だったな。 どうしたんだろう? 帰路。 大人しかった蝉たちが、再びじわじわと鳴きはじめる。 新川「ちょいーす」 太一「ん……おお、谷崎!」 新川「鴻巣! 元気だったか」 太一「ああ、この鴻巣太一、たとえ免停になっても元気だけが取り柄だ」 新川「それを言うならこの谷崎豊だってそうだぜ?」 太一「数日ぶりだな、谷崎」 新川「ああ、鴻巣」 太一「谷崎は学校いつから来んの?」 新川「いちおー、明日になった、鴻巣」 手にしたA4封筒をひらひらと振る。 学校関係の書類だろう。 太一「お、うちのクラスに転入してこいよ谷崎」 新川「鴻巣、無茶言うなよ。自分じゃ決められないってーの」 太一「わはは」 新川「わはは」 二人でげはげは笑う。 太一「だけどさ谷崎———」 新川「……OKギブアップだ! 新川豊です、すいませんでした黒須さん」 太一「ああ、やめとく?」 新川「果てしなく続きそうだったから」 太一「もう帰り?」 新川「ああ」 太一「どうする、うち寄ってくか?」 新川「近いのか?」 太一「こっから十分くらいかな」 新川「いいトコ住んでるなぁ。けど悪い。今度にするわ」 新川「姪がさー、やっぱ群青行くんだけどさ、いろいろ教えてやらんと」 俺の耳、 そういう情報、 逃さない(ぐっ)。 新川「なに親指立ててるよ?」 太一「ヘイ、そこのガイ」 新川「な、なんだよ?」 太一「マジごめん。姪、とか聞こえちゃった」 新川「そう言ったっちゅーねん」 太一「歳は?」 新川「俺の一個下」 太一「写真持ってる?」 新川「……黒須?」 太一「ああ、いや、なんでもない。忘れてくれ」 太一「しかしあれだ、一つ違いだと可愛いだろう」 新川「んー、ま、ルックスだけはな」 太一「全てじゃねぇか」 自然と声が低くなった。 ある種のやっかみと嫉妬と……憎悪と。 新川「は?」 太一「いや、気にしないで」 新川「……つうても、ちょっと男っぽいからさ」 新川「最初に言っておくと、そういう感情はないぞ。なんかそういう目で見ようとしても気色悪いだけだし」 太一「うそダーッ!」 新川「わ、どうしたいきなり」 太一「そんなのうそだーっ! おまえはうそつきだ! 可愛い年下の親族がいるんだぞ? 意識しないはずないじゃないか! おまえは仏国書院の一冊も読まないのか!? ありえねー! 解せねー! よっておまえがうそつきだと証明された!」 新川「黒須……かわいそうだが、マジなんだ」 太一「いやっ、聞きたくない!」 新川「本気で、妹みたいなもんなんだよ。同居してるし」 同棲っ!? 同じベッドッ!? 異性のぬくもりっ!!?? 太一「お、おい、そのロケーションには途轍もない何者かの意志が介在しているぞ」 新川「……また都合の良い勘違いをしてるんだろうなー」 新川「そいつの家族に、俺が引き取ってもらってるんだよ」 新川「だからまあ、兄妹みたいなもんだ」 新川「今回、家ぐるみで引っ越してきたんだよ。俺の足のこともあるけど、そいつもちょっとアレでさ」 太一「ああ……」 そういうことか。 一発で納得だ。 それで二人して群青に通う、か。 太一「あれ、そうするとチミは、姪子ちゃんのためにつきあいで転入みたいなもの?」 新川「そうなるかな。いや、俺だって障害持ちですが」 新川「そして姪子ちゃんでもねぇけど……」 太一「優しいお兄ちゃんだな、オイ」 新川「あの、姪の話になってから絡みっぱなしなんですけど?」 太一「羨望を集めるってのはそういうことだ」 新川「そうかあ〜? ずっと暮らしてるとさー、生理的なこととか見えてきてけっこうアレなんだぜ?」 太一「アレ?」 新川「外見はいいとこもあるんだろうけど、欠点がバリバリ見えるから、たいしてきれいなモンにゃ思えないって感じか?」 新川「食うものは食うし、出すものは———」 太一「あ、その先はいいや。夢は大事にしたい」 新川「……おまえの夢って」 太一「ぜひおまえとチェンジして姪子ちゃんとイチャイチャしたいものだ」 新川「うわ−、想像させるな気持ち悪い」 太一「現実は駄目だ……」 本気で気持ち悪がってるよ、この人。 エロ小説万歳。 太一「じゃまた今度にでも遊びに来てくれ」 新川「おー、姪のことも紹介してやるよ」 太一「マジか?」 俺はわなわな震えた。 新川「……たいしたもんじゃないんだけどな……あんま期待すんなよ?」 たいしたものじゃない。 そう言ったやつの目がテポドン級の節穴であることが、後に明らかになるのである。 夜自室。 太一「……しかし」 原稿である。 あれで没ってことは、どう攻めたらいいんだろう。 手が動かない。 ペンは走らない。 停滞。 太一「うーむむむ」 そうだ。 タンスの中から、着流しを取り出し、着替える。 太一「……文豪爆誕」 気分が大切だからな。 そんなことをやっていると。 友貴「おーい!」 玄関からの声だった。 太一「なにかね?」 友貴「うわ……太一?」 突如とした現れた着物の男に、友貴はびびったようだった。 友貴「なんて顔だ……」 太一「ほっとけ」 友貴「間違えた。なんて格好だ……」 太一「本当に間違いなのかそれは?」 友貴「ジャパニーズキモーノだな」 太一「ジャパニーズソーセキでもある」 友貴「ソーセキか……すごいな」 友貴「いつもそんな格好なの?」 太一「……」 太一「無論だ」 友貴「すごいね」 友貴はよりいっそう俺を尊敬したようだった。 着たのは二度目なのだけど。 太一「で、こんな夜更けにどうした」 友貴「いや……どうしたもこうしたも……これ、太一の分」 段ボール箱だ。 受け取る。 太一「重いな」 友貴「詰めてあるから」 太一「中身は……暗くてよく見えないな」 友貴「部活のおすそわけだよ。夏場だし、無駄に抱えてても腐るしさ」 太一「なんかの食い物?」 友貴「そう」 太一「悪いねぇ」 友貴「いいよ、だって」 友貴「友情は見返りを———」 太一「求めない」 ぐっ 俺たちは不敵に笑いつつ、親指を立てあった。 太一「黒須太一は、青春純情ボーイ・島友貴を応援します」 友貴「いやあ」 友貴「あ、そうだ」 顔が引き締まる。 友貴「桐原がさ、倒れた」 太一「……にゃにぃ?」 友貴「正確には倒れていた」 太一「あいつはハラキリ拳の使い手で、俺のカラデをもってしても倒すのは容易じゃないはずだ」 友貴「その倒れた違う。それにカラデってのもわけわからないし」 友貴「そんでさ……今は桜庭が看護してるんだけど、当然役に立たないから……支倉先輩に看てもらえないかなって」 太一「ああ、いいよ」 友貴「すぐ頼んでもらえる?」 太一「ああ、じゃちょっと行ってくるわ」 サンダルをはいて、彼女の家に向かう。 戻ってくると、まだ友貴がいた。 太一「いいってさ。もう行ったよ」 友貴「……はや」 友貴「太一の言うことだけはよく聞くんだ」 太一「そうしないといろいろエラーが起こるからな」 友貴「え?」 太一「それより、あがって98(キュッパチ)でゲームでもやってく?」 ないが。 太一「おまえ、ディスク交換担当ね」 友貴「98って何? ウィン○ウズの?」 太一「嘘だと言ってくれよ、マイフレン」 友貴「……わけわかしまず」 友貴のギャグはこんなのばかりだ。 太一「本気で98知らないのか?」 パソコン少年の分際で。 友貴「少なくとも、今まで聞いたことはないな」 太一「……そういうものなのかな……いや、俺だって世代違うけど……」 太一「けど友貴、今の発言は昭和四十年代以降に生まれたすべてのパソコンおじさんたちを敵に回したぞ?」 友貴「いや……今さらぜんぜん恐くないし……」 友貴「だいたい昭和なんて古生代に生まれたオールドタイプ100%な原始人のことまでいちいち面倒見てられないよ」 太一「ッッッ!?」 俺は畏怖した。 太一「そんなこと言ったらダメェ〜ッッッ!!」 友貴「なんでさ?」 友貴はわりと恐いもの知らずだ。 太一「そ、それが若いってことなんだろうな? な? 無謀な若さって本当に恐いなあ、友貴よ」 友貴「だってさ……おじさんはおじさんコミュニティで得意のガン○ム話でも永遠にスパイラルさせておけばいいんじゃないかな?」 太一「ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?」 寿命が縮んだ。 そして思い出した。 去年のこのぐらいの時期。 はじめて和服を着た日に、遊紗ちゃんが遊びに来たことを。 太一「はいはーい」 太一「どちら様で?」 遊紗「あ、あの、堂島です」 太一「その極道みたいな苗字とは裏腹にキュートな声は……遊紗ちゃん? あいてるからどーぞ」 ドアがおそるおそる開き、美少女が立っていた。 遊紗「どうも、こんばん……わ」 座らせて、麦茶を出す。 いろいろ会話をして。 遊紗「あの、わたし今日が誕生日なんです」 太一「へえ、そうだったのか」 遊紗「それでですね、これ……お誕生日プレゼントです」 太一「ええと……とりあえず、ありがとう。でも、あれ?」 遊紗「それと、交換日記を明日提出できたらなと思ったので……」 太一「じゃあとりあえず交換日記と、それとこれは俺からの誕生日プレゼント」 遊紗「…………」 この娘は驚くと絶句する癖があった。 太一「さてと、じゃ家まで送ろうか」 遊紗「……………………っっ!?」 さっきの倍くらいに絶句した。 太一「もう夜だし、ちょっと危ない人もいるからね」 特にこの街には。 太一「行こうか?」 遊紗「は、はいっ」 そして、送った。 遊紗「その質問、毎回しますよね、太一さん?」 遊紗「難しくてよくわかりませんですけど……はい」 遊紗「きょーしゅーです」 きょーしゅーです。 きょーしゅー。 郷愁? 違う。 強襲。 強襲。 そう、強襲。 激しく、攻めること。 ああ。 俺はこの言葉が、好きだな。 夢の中で嗤《わら》う。 とめどなく。 嘲弄《ちょうろう》。 沈んだ感情はすぐに深淵に呑まれる。 シニシズムの虚無を思わせるメッキは溶解し、むきだしになったカケラが……巨大な母体にまざって、戯《ざ》れる。 思考は一つ。 敵は敵。 殺さば殺す。 学校屋上。 トンテンカンテン トンテンカンテン 今朝も屋上では、精力的な部活動が行われている。 太一「こらあーーーっ!!」 見里「は、はいっ!?」 一喝すると脚立の上から先輩が ぼてり と落ちた。 見里「あたたたた」 太一「雉も鳴かずば撃たれまいに」 見里「な、鳴いてないじゃないですか」 太一「ヘイ、ミス怪我人。ホワイワズイットナウ?」 意味とかどうでもいいんで。感性なんで、こういうのは。 見里「うっ」 太一「しかも私めのいない時間帯に」 見里「べ、別にこそこそやっていたわけじゃ……ただどうしても気になりまして。今朝は五時に目が覚めましたし」 弁解がましく、先輩は身振り満載でそう説明した。 太一「……うらぎりものだ」 見里「ち、違いますよっ」 太一「あーあ、見里先輩ってつれないなー」 見里「ああ、ですから……」 見里「はい、わたしの負けです。ごめんなさい」 両手をあげた。 太一「午前七時五十分、現行犯逮捕」 見里「はぁい♪」 両手を前に出す。 その手首に。 かちゃん 見里「……へ?」 あ、しまった……つい。 見里「なんです、これ?」 太一「手錠……」 見里「玩具ですよね?」 太一「本物……」 静寂。 見里「ど、どどどどうして本物のブツを持っていますか?」 太一「こ、こここ交番に人いなくて手錠落ちてたから持って来ちゃったの……」 見里「なんだ……ふふ、もう、仕方ない人♪」 つん 太一「あはは、ごめんなさーい」 笑みふたつ。 見里「鍵は?」 太一「ああ、鍵ですか……うん……鍵は、どこにあるんでしょうねぇ?」 笑みが固着した。 見里「うーん」 見里「あははー」 笑った。 見里「ごめんなさい、ぺけくん。今、鍵はどこにあるんでしょうねって聞こえちゃいました」 太一「そう言いましたから」 無表情になった。 見里「今、あなたはわたしに暴行されても文句を言えない立場になりました」 太一「も、ものによってはOKデス!」 攻撃される。 太一「ひぎゃっ」 見里「どうして……きみはそう軽率なことを……」 太一「あの、つい条件反射で……」 見里「こんなの鍵がなかったら外れないですよーっ?」 太一「まあまあ。鍵を探せばいいんですよ、ね?」 見里「……その交番にあるんでしょうか」 太一「もちですよ。今日帰りに探していきますよ」 見里「今から行きなさい。ね?」 ギリギリギリ…… 太一「はひ……スグニ」 Wアイアンクロー炸裂の現状、他に答える余地もなく。 太一「でも戻ってくるまではおとなしくしててくださいよ」 見里「これじゃ着替えもできません」 太一「とりあえず、教室にいたらどうです?」 見里「そうですね……」 二人で校舎に戻る。 見里「誰にも見つからないといいんですが……」 太一「なぜです?」 見里「連行されているように見えるじゃないですか」 太一「どっちかと言うと、プレイしているように見えたりして」 見里「ぷれい?」 太一「三階でしたよね、先輩の教室」 見里「あ、そこですよ」 そこに美希がやってきた。 美希「こんちです!」 見里「っ!?」 焦って手元を隠そうとした先輩は、それに失敗した。 手首を覆っていたタオルが、はらりと落ちる。 じっとしていれば良かったのに。 美希「……」 美希「た、逮捕されてる……」 見里「違います、これは悪戯です」 美希「……」 美希「あの、先輩」 挙手をした。 太一「なんだね、山辺巡査」 美希「はっ、今日は保健室があいているようであります!」 敬礼しつつ、プレイする場所を紹介してくれた。 うう、いいヤツ……。 見里「?」 ウブな先輩は理解できない。 太一「やあ、ありがとう。君もどうだい?」 美希「は、自分はもうちょっと処女でいたいかな、と思う次第」 太一「それは残念。では」 美希「おつとめご苦労様でーす」 ぺこりと頭をさげて、僕らを見送る。 見里「今の会話、よくわかりませんでした」 太一「わかったらえらいこっちゃ」 見里「???」 太一「さて」 駅前。 とはいっても、こじんまりとしたものだ。 ゴミゴミしていないのが救い。 交番は……すぐ近くにある。 パトロール中の札がかけられていて、人は誰もいない。 鍵はすぐ見つかった。 これって窃盗になるのかしら? なるに決まっている。 しかも備品だ。 軽犯罪王・アルセーヌ太一、最後の犯罪。 太一「あった」 すぐ戻らないとな。 駅前には人通りがない。 もともと住宅街と都会とのアクセスポイントでしかない駅は、にぎわいも薄い。 アスファルトの無機的な広場が、かすかな陽炎を立ちのぼらせている。 車もまるで見られない。 だから道の真ん中を歩いた。 太一「……」 咎めだてる者はいない。 どうなんだろう。 たとえば、そういう世界。 どんな犯罪に手を染めても、誰も咎めることもなく、また咎められることもない。 無法の世界。 だけどここにいるのは自分だけなのだ。 自分だけの世界で、どんな犯罪があるだろう。 ない。 人との接点がなければ、大半の罪は霧散して意味を失う。 理想的だ。 理想の社会と言える。 個であること。群を捨てるということ。 そのために必要な能力とは何か? また、適した精神構造とは? 人間にはいろいろな欲望がある。 水を飲みたいとする欲求とはまた別の次元で、それはある。 欲望とは何だろう。 出世欲。 知識欲。 創作欲。 征服欲。 それらは他者に対して抱く、あるいは他者によってその価値が定められるもの。 欲望というものは他人の承認を得たいという、あらわれかも知れない。 人より資産を持ちたい。 人より知識を持ちたい。 人より出世したい。 前提としての他者。 多くの人が価値あると認めるものを獲得することに、欲望の根元がある。 その明確なかたちのひとつが、通貨だろう。 さしあたっての利用目的がなくとも、人はそれを欲する。 人間が欲望とともに生きる時、すでに他者の意識や価値観によって世界は染まっているのであり、またその中で人格は形成されていくのだ。 では個であったなら。 欲望はどう変質するだろう? いや、他者がいなくなった瞬間、欲望はその定義を失って欲求へと至る。 対抗馬のないレースは競走として成立せず、故に走る速度は追求されなくなる。 自分一人の世界で、なお知識層であろうとする者が何人いるだろう? 見る者のない芸術を、彼らは作り続けることができるのか? 誰を征服するというのか? そう。 一人になれば、人は変質する。 せざるを得ない。 突き上げるような負の感情も、マイナスではなくなる。 罪も罪でない世界なら。 この『目』は、そのためにあったのだと、天啓のように思った。 振り返る。 太一「……いつまであとをつけてくるつもり?」 人気のない広場に、声はよく通る。 太一「用事があるんじゃないのかな?」 待つ。 しかし返答はない。 太一「どうかしてる」 吐き捨てて、学校方面に歩き出す。 いちいち構っていられない。 気配はひたひたと追尾してきた。 心配してくれるのはありがたい。 が、しかし。 太一「俺は髪の毛が白いから、日射病になんてならないのっ!!」 母親に対する苛立ちって、こういうものなのかも知れない。 新鮮ではあったけど、煩わしさがまさった。 学校のそばまで来て、俺はほっと息を落とした。 気配が消えてくれたからだ。 太一「……あーもー、イライラした」 しかし毎度のことながら、鳥肌が立つ。 あの存在密度には。 太一「魔物ですか」 近いかも。 そんなものに愛でられるのも大変だ。 がるるるるるるるる 腹の虫だ。 野獣のようだ。 腹の獣とでも言おうか。 太一「食べ物のにおいがする……」 ふらふらと、足は学食に向いた。 太一「おー、すいとる」 警備員の数が少ない。 いつもは十人くらい立ってるのに、今日は二人だ。 暑くなってきて、みんな精神的にも参ってきてるせいか欠席が多い。 だから学食も、どことなく閑散としていた。 おかげで競争率高めのメニューにも楽にありつける。 いや……とあるコネを使えば、簡単にありつけるのだが。 けどアレは使ってはいけない。 禁断の奥義なのだ。 諸刃の剣だし。 あーでも、遊紗ちゃんかわいいからなぁ。 B定食の食券を買い、カウンターに持っていく。 声「あらアンタ! こんなトコで何してんのよ!」(98ホーン) 太一「どわあああっ!?」 出た! 声「ご挨拶ね、ぐふふ」 そう言って彼女は、ありふれたファンタジー物に出てくる洞窟奥で酒盛りに興じる異様に巨大な盗賊団のボス(時に入り口より巨躯なケースさえ散見される。ギャグか?)みたいなくぐもった声で笑った。 恐かった。 太一「驚かさないでよ、おばちゃん。このひ弱な文士をさ」 声「アンタが文士ってタマかい。馬鹿も休み休み言いな!」(118ホーン) ドカン、と怒声が学食に響く。 強化ガラスがビリビリと震えた(ありえない)。 めっちゃ注目を浴びる俺。 太一「……声が大きいよ、おばちゃん」 おばちゃん「普通に話してるんだけどねぇ。ここの子たちヤワだから!」(94ホーン) おばちゃん「あんたも手加減してやんなよ!」(115ホーン) 太一「!?」 危険を察知して、一歩下がる。 巨大な、異形と称していいてのひらが、ゴウッと眼前を横切った。 太一(今の)(スキンシップ?)(直撃していたら……)(死!?) ついつい筒井○隆の七瀬シリーズで使われたみたいな心理表現方法を用いてしまう。 なんつうか七瀬繋がりってあると思うし(ねぇよ)。 おばちゃん「やっぱりはしっこいね、アンタは! ぐふふ」 おばちゃん「メシかっくらいにきたんだろ?」 太一「は、はひ」 ライオンに餌をやるような気持ちで、食券を差し出す。 おばちゃん「遊紗が世話になってるから、サービスしてやるよ」 太一「ははは、どぉも、ははは」 そう。 この方こそ、究極美少女・遊紗ちゃんの実母であらせられる。 つまり彼女も数十年後にはこうな——— ママン「どうしたい? ふらついて」 太一「ソーリー、めまいが」 ママン「そりゃいけないね。血肉が足りないんだよ」 母上様は決めつけた。 ママン「はいよ、S定食」 太一「Sなんてあったんですか」 ママン「アンタのために作ったのさ!」(118ホーン) 学食中に響き渡る、でかい声で言われた。 ヒソヒソ…… ヒソヒソされる。 太一「……ありがたいのですが母上様……」 ママン「あら母上様だなんて嬉しいねぇ!」 ご飯が倍に盛られた。 ママン「ね、あんた、娘とはどうなのよ?」 太一「は、どうと申されますと?」 ママン「うまく手なずけたみたいじゃないか!」 太一「げふんげふん!」 ママン「婿か。いいねぇ。ぐふふ」 太一「ムコっ!?」 マスヲっ!? 太一「あいや、お待ち下され母上様!」 ママン「大丈夫さ、心配はいらないよ!」 トンカツが二枚になった。 これは……賄賂! Y炉ですか? ヒソヒソ…… 太一「あわわわわ」 噂されてる! 俺、今すっごく噂されちゃってる! ママン「アンタもいろいろあるんだろうから、難しいこと考えなくてもいいんだよ」 ママン「全部アタシに任しときな」 具は薄いワカメしかないはずのみそ汁に、なぜかカニが丸ごとぶち込まれていた。 ヒソヒソヒソヒソ…… 声「……収賄……」 声「天下りで……」 声「……インサイダー取引が」 声「何か非合法の……」 声「……参拝問題の当事者……」 太一「うぐぅ!」 まずい。 黒須太一の沽券に関わる問題。 トンカツは四枚になっていた。 太一「多すぎっス!」 ママン「ん? なんだい、これくらい食べられるだろうよ、男の子なんだから!」 沖縄のサンゴを貪り食うオニヒトデみたいな手で、ばちーんと肩を叩いてきた。 自重の倍ほどの重みが、俺を床に押しつけた。 太一「ぐわああああ!」 膝をつく。 ママン「あら失敬! ゲハハ! やっぱり食べなきゃ。そんでもっと太らなきゃ!」 太一「ううう」 遊紗ちゃん……はやく家を出ないと、太らされてしまうよ。 常人の五倍以上の食料を抱えながら、適当な場所に座る。 友貴「相変わらず、強力なコネクションだなぁ」 Cランチのトレイを抱えた友貴が、隣に座る。 太一「友貴先生か」 友貴「あやかりたいもんだ」 太一「あやかってくれ」 友貴「いいの?」 太一「こんなに食えない」 友貴「じゃ遠慮なく」 トンカツを持っていった。 友貴「さっきまで桜庭とパン食ってたんだけど、足りなくてさ」 太一「元運動部だもんな」 友貴「筋トレとかもうやってないんだけどなぁ」 太一「筋肉はあるだけで脂肪を消費してくんだよ。だから筋肉つけてるヤツは燃費が悪いんだ」 友貴「へえ。じゃ筋肉ない方がいいわけ?」 太一「んなバカな。余分な脂肪がつかない体質になるから、適度に筋トレはしといた方がいい」 友貴「なるほど」 太一「桜庭はまたカレーパン?」 友貴「七個くらい食ってた」 太一「うげ」 友貴「ここの学食業者のがマイフェイバリッド・カレーパンだとか言ってさ」 太一「アホ舌だ」 友貴「アホ舌だな」 食う。 太一「くそっ、食っても食っても減らん!」 友貴「……もらっとこうか?」 太一「もらってくれ」 友貴「おい、みそ汁にカニが入ってる!」 太一「……入ってるんだ」 友貴「どういうコネだよ……」 太一「世界最強のサブミッション、マスヲホールド(婿固め)だ」 友貴「例のおばちゃんの娘ってやつ?」 太一「んだ」 友貴「やっぱ、母親似なのかな」 太一「いや、すっげー可愛い眼鏡っ子。俺になついてんの。言うこと全部信じるし、たまらん」 友貴「なんだ、無問題だ」 太一「いや……」 太一「スイス銀行に口座を持っちゃうようなアグレッシブな固ゆでジョブに就くだろう俺は、カタギのクーニャンとニャンニャンしちゃうわけにはいかんのだ」 友貴「寝言が聞こえる」 友貴「あ、太一さ、適応係数試験どうだった?」 太一「どーもこーも」 セルフサービスの麦茶をコップについでがぶがぶ飲む。 太一「激高。あかんです。担任もコイツやばすぎって感じで白い目してたし」 友貴「いくつよ?」 太一「……84%」 友貴「うわ、それ偏差値だったらなぁ」 太一「そーなのよ。まっずいよなぁ。俺、やばいことになっちゃうかも」 友貴「研究棟で解剖されるかもね」 太一「お慈悲」 すがりつく。 友貴「無理だ……17%の俺とは住む世界が違う」 太一「ってオイ! どうしてそんな常人と同じ数値やねん!」 友貴「……だって、俺外障だし」 太一「あ、そうか……」 太一「あまりにもバカなんで対等と思ってた」 友貴「おまえが言うな」 太一「あー、ラバ(桜庭の蔑称)も低いんだろうな」 友貴「あいつ15だったかな」 太一「あいつ、心障だろ? どうしてその数値で群青なんだろ?」 友貴「いや、あいつ願書に群青って書いたらしいよ」 俺たちは顔を見合わせた。 二人「はあああっ!?」 太一「……わけわかんね」 友貴「……同感」 太一「国の調査って結構いい加減なんだよな」 太一「あ、そういやおまえ、とっととお姉さんと仲直りしれ」 太一「やりにくくってしょうがない」 友貴「それはお姉ち……姉貴が裏切るから……」 コイツ今『お姉ちゃん』とか言いかけなかったか? ……まあいい。 太一「宮澄先輩が?」 友貴とみみ先輩は姉弟である。 苗字は違うが。 友貴「放送部に入ったのだってさ、無理矢理なんだ。帰宅部しようと思ってたのに、あなたパソコン少年でしょだったら手伝ってとか言ってさ」 友貴「パソコン少年だから手伝えという論法だ。どうか?」 太一「まいっちんぐ」 太一「いいじゃん。どうせ帰宅部みたいなもんだ」 友貴「まあな……どっちにしろバスケ部ないしなー、ここ」 太一「っつーか走れないんだろうに」 友貴「まー」 太一「あきらめれ。うるさい上級生とかいないから、気楽なもんだ」 友貴「帰宅部になったら、好きなだけ漫画読めると思ったのになぁ」 友貴「なんでいまさら姉貴と仲良く部活動しなきゃなんないのよ」 太一「……シスコンがそらぞらしい」 友貴「何か言ったか?」 太一「いーえー」 それは一年前の思い出だった。 というわけで、部活中だったりする。 この部品はどうするのだろう? ここか? それともここか? 太一「……」 ここにしておくか。それっぽい感じするし。 見里「わかりますかー?」 太一「まー、なんとか」 下では先輩が脚立を支えてくれている。 見里「男の子がいると頼もしいですねー」 太一「そうでしょうとも」 太一「ご用命の際はいつでもこの私メを……」 つうか。 この人、弟いるじゃないか。 太一「……あの、友貴と喧嘩してますよね?」 先輩の顔が、さっと曇る。 見里「あー、まあ……」 見里「ちょっと冷戦に」 太一「友貴もケンカなんてするんだなぁ」 見里「え?」 太一「あいつ、本気で怒ることなんて滅多にないから」 先輩はその言葉に、ショックを受けたようだった。 見里「……当然、なのかもしれないですね」 太一「はい?」 見里「人生は難しいですこんちくしょうという感じです」 わけがわからない。 友貴『……裏切られるぞ』 太一「あの、裏切りとか、なんです?」 眉根が寄った。 見里「友貴が、そう言ってたんですか?」 太一「はあ」 見里「……」 太一「先輩?」 見里「……うーんうーん」 先輩は泣きそうな顔で、うーんうーん唸りだした。 太一「アノウ?」 見里「なんといいますかーもー!」 がくがくと脚立を揺する。 太一「わわわっ!?」 見里「ままならねーですーっ!!」 太一「落ちそーですっ!!」 散々な部活だった。 七香「やっほー、たいっちゃーん!」 太一「あれ?」 謎の自転車女だ。 太一「謎の自転車女だ」 思ったまま口にしてしまった。 七香「思ったまま口にしないように」 ばれていた。 太一「あやしいんだよなー、この女。素性は不明だし。見たこと無い制服だし」 七香「……開き直って思考を言葉に仮託《かたく》しないように」 太一「七香って名前だって本当なのかどうか」 七香「……うっさいわね。細かいことグダグダ言うんじゃないわよ」 太一「どこの学校通ってんの?」 七香「ひみちゅ」 太一「あ、そう」 無視してさっさと歩き出す。 七香「お、ハードボイルディ〜」 太一「歩きながらでも話せるだろうに」 七香「まぁねん」 太一「して、何用?」 七香「もちろん用事があるわけさ」 びっしりと指さして。 七香「とっととアンテナ組み立てる!」 太一「はあ?」 太一「アンテナって、見里先輩のやってるやつ?」 七香「そう、それ」 七香「このままじゃちょっと間に合わないよ」 太一「何に」 七香「期限に」 太一「何の」 七香「アンタねー!」 太一「な、なんだなんだっ」 いきなり怒りだしたぞ。 七香「一回一回が、大事な人生でしょうが! 調子こいてるといつまでもいつまでも無駄にしちゃって、そのうち存在自体が固定行動に固着しちゃうんだからね!  可能性ってのはそーいう性質があるんだから! ウィンドウズだって一時キャッシユのせいでリセットしたつもりでもエラーを繰り返すことがあるでしょーに! ことに今は———」 ハッとして、口をつぐむ。 太一「……ノイローゼですか、貴様?」 七香「こんなキューティーつかまえて貴様なんて言うなあ!」 びたーん! 太一「うぉふうっ」 ビンタされた。 高速でスピンしつつ斜めに跳ね上がり、水平になった状態で地面に叩きつけられた。 太一「……お……おふ……おぶ……」 この娘、コミック力場を発生させることができるとは。 ※コミック力場=太一科学。スカラー電磁学やエーテル宇宙論、昇騰機関などと並ぶ超科学理論のひとつ。あらゆる物理現象を加速すると同時に緩和する。 結果、通常物理では考えられないコミック本めいた効果を発生させる。統計的に勝ち気幼なじみ的パーソナリティに多く付随し、そのキャラ性を維持するために作用する。 七香「あっ……ごめん……」 太一「すごい力だ……天下狙える……」 七香「女の子にそんな皮肉言わないの!」 助け起こしてもらう。 太一「い、いたひです……」 七香「……ごめんね」 太一「天下狙えるってのは、単に腕力とかでなくキャラ的にね」 七香「?」 太一「キミの科学力のおかげで、あれだけの打撃を受けても生きていられるのだよ」 七香「よくわからない……」 太一「でももうちょっとはじけても良かった。スピンしたまま大気圏とか。まあ普通から外れるためにただ極端に走るだけっていうのも貧困のあらわれだと思うから、メリハリだと思うんだけどさ。 太一「要するに王道に対して常に皮相的な立場を保つって行為は自己顕示欲に支配された瞬間に堕するってことだよね」 七香「おまいはあたしと会話する気があるのか?」 太一「……すいません」 自分でも意味わかってないです。 七香「しょうがないヤツ」 呆れ半分、ため息を落とす。 七香「あ、ほっぺたに血」 太一「え? ちょっとだけ力場からはみ出ちゃったのかな?」 七香「まだ力場とか言うか」 太一「自分の血は平気」 七香「……え?」 太一「いや、血が苦手なものでして」 その時、七香の顔に去来した表情を、俺はうまく表現できない。 泣きそうでもあったし、笑っているようでもあった。 とはいえ、単純な泣き笑いとも取れない、根深い葛藤が混入していた。 七香「……太一」 掠れるような声が、唇から流れて。 顔が寄ってきた。 潤んだ瞳とともに。 人間の意識活動というものはたいしたもので。 普通の漫画主人公なら、 (え……?) などと起こる出来事さえ予測できず、戸惑うのがせいぜいなのに。 現実人間であるところの俺の脳は『KISSされる!?』というシチュ的にそれしかありえない結末を容易に予測してのけて。 七香の顔が五センチに迫った時にはもう、キス後に『いかにそれっぽく振る舞うか』といった体面処理について検討していたりするわけだが。 ……実際こっちのがリアルなのだが、世の物語にほとんど採用されていない理由は、リアルすぎて物語性とうまく親和しないんだということが素人の俺にもありありとわかった。 リアリティごっこなんだよな、結局。 と内心うんうん頷いてたりして。 といいますか、KISSまだ? れろーん 太一「……」 色気も味気もないKISSだった。 舌を頬に貼りつけて舐めあげる行為を、KISSと称すればのことだが。 七香「ツバでもつけておけば治るでしょ」 太一「うわあああああ」 拳で側頭部を打つ、打つ、打つ!! 太一「知った風な思索の結末が早とちりか! こいつめ、こいつめ! この恥さらしが!」 七香「自分で自分をっ!?」 太一「なにがリアリティか! なにが親和か! 頭良いつもりか俺様野郎が! 人以下であることを国際的に証明されている分際で!」 七香「お、おちつけー……」 太一「死にたい」 七香「こらこら」 太一「いわゆるひとつの自分がゴミであることを自覚していなければならないのです」 七香「……へ?」 太一「有害なゴミ」 太一「群青には無識者もたくさんいるから」 太一「俺はいつもこわかったんだ。傷つけてしまわないかって」 太一「危険があっても回避できないのが、無識ってことだからね」 太一「猫が車の前に飛び出すみたいに」 太一「……自制しないといけない。細心の注意でもって」 太一「けど」 太一「毎日楽しくて、つい忘れてしまうんだ。自分が何者かってことを」 太一「俺は———」 七香が身じろぎした。 今度は本当に虚を突かれて、予測する間もなかった。 太一「え……?」 七香「楽しいって、言えるなら、いいじゃん」 あいまいな胸の柔らかさ。 少女の香り。 不思議と、猥雑なものは感じない。 抱かれた時の感覚が、曜子さんとは違った。 七香「その言葉は、嬉しいんだ。すごく」 太一「…………」 七香「強くならないと生きる資格がないわけじゃないから」 七香「弱いままでも、いいんだよ」 太一「弱いままでもって……」 知っている。 彼女は何かを知っている? 太一「キミは」 七香「七香」 太一「ななか……」 知らない。 過去のいかなる軸にも、その名前は記録されていない。 じゃあどうして彼女は俺のことを? 七香「落ち着いた?」 太一「……うん」 身を離す。 七香はにこにこと笑っている。 太一「……君って」 太一「俺のこと好きなの?」 七香「ばかめ」 ぺてぃっ 額にチョップされる。 七香「そんなんじゃないって」 否定してから、小首を傾げて言葉の穂を継いだ。 七香「……けど、そーだな。好きかもね」 太一「ほんと?」 七香「あんたの思う好きとは、ちょっと意味が違うけどね」 太一「なんのこっちゃ」 七香「あんたってさ、きっと子供の頃、母親にHな悪戯するタイプだよ」 太一「いねーですもん」 七香「あたしもだ」 七香「でもさ、そーいうのって、けっこう母親も嬉しいのかもよ?」 太一「Hな悪戯がか?」 七香「そう」 太一「でも幼い息子にペッティングされたらショック……いや、むしろ萌えか?」 七香「化学分解されてしまえこの有害ゴミめが」 太一「うわーん!」 七香「さて、帰るか」 太一「うちに寄ってけばいいのに。ぬるい水くらい出すぞ」 七香「ニヒヒ、Hなことされたくないから帰る」 太一「するする、来たらするさ」 七香「危ない危ない」 彼女はさっそうと自転車にまたがる。 背後にまわって下着を見ようとする俺。 ノーコンのブルマだった。 太一「ちっ」 ……って、ブルマだって? 女性解放運動も真っ青なセクハラ体操着としてずいぶん前に絶滅したという、ブルマ!? 太一「な、ななかさん……?」 俺はわなわなと震えた。 噂によれば、そのヒップへの張りつき具合は絶品だと言う。 七香「アンテナ、ちゃっちゃっと組み立てちゃいなさいよね」 太一「は、アンテナ?」 唐突。 七香「それって、可能性だからさ」 チェーンが小気味よい音をたてて、まわる。 タイヤがアスファルトを擦り、自転車が走り出す。 太一「……なんなんだ」 原稿を書いている。 太一「ひっひっひ」 太一「ひっひっひっひっひ!」 太一「ひーっひっひっひっひっひ!!(泣いている)」 まとまらないよー! 初日、自分の才能にうっとりしながら書いていた頃とはテンションが正反対だ。 声「……けーくーんー……」 誰かが呼んでる。 窓から外をのぞく。 太一「みみ先輩?」 見里「こんばんはー」 太一「どうしたんですかー?」 見里「どこにいるのですー?」 太一「二階の窓からそっち見てますー」 見里「暗くて見えませーん」 太一「こっちはよく見えますよー」 見里「どうしてなんでしょうねー」 太一「さー?」 見里「ぺけくんはすごく夜目がきくんですねー」 太一「野生どーぶつなんで感覚鋭いんですよー」 見里「なんかかっこいいですー」 話しながらばたばたと腕を振っている。 あれでけっこう幼いのだ。 太一「それより、あがってくださいー」 見里「はーいー」 見里「あ、蝋燭♪」 太一「執筆活動には雰囲気が大切なんですよ、おぜうさん」 見里「なるほどー」 ちょこんと正座。 見里「お勉強でもしてたんですか?」 太一「いや、原稿です」 見里「ああ」 太一「して、当家にはどのような御用向きで?」 見里「あ、よく手伝ってくれてますから、ご飯をオゴろうかと思いまして」 包みを掲げた。 見里「お弁当です」 太一「先輩万歳」 見里「二人分作ってきたんです、一緒にどうですか?」 太一「飲み物持ってきます」 太一「うまい」 太一「先輩は器用だなあ」 見里「そうですか? 料理は最近はじめたばかりなんですけど……」 太一「まー、俺もグルメじゃないんで」 見里「あ、その言い方はひどいかもです……」 太一「あー、うまいですよ。うん、うまい」 太一「火の通り方がいいですね。直火ですか?」 見里「はい。もちろん」 太一「……なんか、こういう弁当食べるの、久しぶり」 見里「そうなんですか?」 太一「俺……母親、いないですから」 見里「まあ……」 太一「母親が恋しいのかもしれませんね、俺」 見里「ぺけくん」 太一「先輩」 薄闇の中、見つめ合う。 蝋燭のあえかな炎が、彼女の頬を淡い朱色に照らした。  ・迫る  ・ボケる 太一「先輩……」 見里「なぁに?」 太一「俺のためにこれからずっと、みそ汁を作ってくれませんか?」 なぜか俺はプロポーズしてしまった。 見里「えっ」 先輩はうろたえる。 体が傾いで、視線がそれる。 小さな拳が口元に添えられ、額に思案の皺が刻まれた。 見里「ぺけくん……わたし……」 太一「はい」 見里「みそ汁、作れないんです」 太一「らりほー!」 窓から叫んだ。 古式ゆかしいナイスボケだった。  ・さらに迫る  ・ボケる 太一「わかりましたよ、先輩……じゃあですね、かわりに」 見里「なぁに?」 太一「エッチなことって、したことあります?」 見里「文脈違うじゃないですか!」 太一「先輩っていいなって思ってたんです」 太一「あの……桜舞う入学式の日、弟が死んで目的を見失った俺を救い出してくれた先輩の思い出の一言が」 見里「だまされません、そんな最大瞬間風速的恋愛オーラにはだまされません!」 見里「だいたい弟なんていないでしょ!」 太一「白球にかけた一夏、俺はアイツから逃げるために、野球をやめたつもりでした」 見里「違う違う、野球は違う」 見里「といいますか、すごくHなこと考えてませんか?」 太一「いやー」 太一「食欲が満たされたから、あとは性欲かなって」 見里「らりほー!」 先輩は窓から叫んだ。 見里「それ以上近寄ったら……舌を噛んで死にます」 太一「そ、そんなにイヤなのですかー!?」 泣きそう。 やっぱ人間容姿だ。 白髪の醜悪ボーイには、人並みの恋愛など許されないのだ。 でも土下座したらHさせてくれないかな先輩。 もう一押しの気がする。  ・迫る  ・ボケる 見里「と、とりあえず落ちつきましょう、ね?」 太一「……だめです。男がここまで来たらもう引っ込みがつきませんよ」 見里「そんなこと言われてもぉ〜」 太一「あの時」 見里「……え?」 太一「一年生の時、俺が一人でいた時」 太一「あなた、よく話しかけてきた、屋上で」 見里「あれは……同じ場所で居合わせたから……」 太一「先輩は、俺を暗闇からすくい取ってくれた」 太一「俺、本当は放送部に入れなかったんですよね?」 太一「適応係数が高すぎるから……」 太一「でも、誘ってくれたじゃないですか」 太一「手もまわしてくれた。俺がちゃんと入部できるように」 見里「…………」 太一「調べましたから、知ってます」 見里「それは……一人で、寂しそうだったから……健全な……部活を通して……」 太一「動かないで、外せないです」 見里「外したらだめです!」 太一「外します。断固として」 見里「あ……だめ、おいたです……だめっ」 太一「人に手を差し伸べれば……そこに関係ができます」 太一「感謝されたり、好意が生まれたり」 太一「俺が先輩と、したいと思うのだって……自然なことです」 見里「で、でもわたし……あ……だめですってば……」 太一「なら……俺を拒絶しますか?」 太一「俺をもとの暗闇に戻せばいい」 太一「そうしたら……俺だって無理強いはしない」 太一「繋がろうとは思いません」 見里「……そういう言い方は……ずるいです……」 太一「ええ、ずるいですよ」 太一「ずるいんです……俺は」 CROSS†CHANNEL 太一「ねえ先輩」 見里「はい?」 太一「明日、海にでも行きませんか?」 見里「……海に?」 太一「二人で」 見里「そーですねぇ」 部活のことを考えたのかも知れない。 太一「休憩も必要です」 見里「……そうですね」 見里「じゃ明日は休みにして、パーッと」 はにかむ。 吹っ切れたように見えて、やはり、どこかに惑いがあった。 どうしても届かない。 体を重ねても、なお。 楽しい海だった。 今でも、皆のはしゃぎようは思い出せる。 冬子「きあああっ!? どこつかんでんのよっ!?」 太一「水着のお尻のとこの布」 見里「支倉さんって……黒須君とどういうご関係なんでしょうねぇ?」 太一「ん、曜子ちゃん?」 冬子「曜子ちゃん!?」 見里「曜子ちゃんっ!?」 美希「曜子ちゃんっっっ?」 友貴「曜子ちゃん!!」 美希「ヤクザですねもう」 見里「カ、カラダはいやぁ〜」 遊紗「あのっ、失礼しますしますしますっ!!!!」 冬子「ばーか」 遊紗「あっ、くるっ、くるるっ?」 美希「い、いたい〜、おでこいたい〜」 見里「……ぶつぶつぶつ」 太一「楽しかったけどな」 楽しい海水浴はこれでおしまい。 美希の傷は、ほんの少しだけ跡が残りそうだった。 それでも帰り道、本人は晴れ晴れとした顔をしていた。 傷ついたかわりに、何かを得たような。 そんな顔だった。 そのあと、見里先輩が放送部用のアンテナ搬入につきあうため、学校に戻って。 まだ姉とは断絶していなかった友貴が、皮肉を言って。 そのシスコンぶりを、当時まだ群青付属三年生だった美希にからかわれて。 遊紗ちゃんが、集団というものに対してはじめて、小さく心を開いた。 そんな海だったんだ。 教室に顔を出すと、冬子がいた。 俺は驚いて、佇む。 太一「……桐原」 気怠げに視線が、まるで俺の背後でも見通すかのように、虚ろに泳いだ。 冬子の頬がこけていた。 肌色も悪い。 髪の毛もほつれて。 命のともしびは、確実に小さくなっていた。 関心ない様子で机に顔を伏せる。 冬子は誰にも触れないまま、朽ちていくのだろうか。 人類の終わったこの世界で。 彼女はショックに耐えられなかったのか。 誰だって最後は一人で死ぬ。 けど死ぬまでは、生きていないといけないのに。 俺は近寄って、声をかけた。 できるだけ優しく。 それが偽善であったとしても……構わない。 俺は偽善を行うために、在るのだから。 太一「気にくわないこともあるだろうけど、明日から部活、来てみないか?」 冬子「……え?」 困惑と戸惑いを貼りつけて、彼女は伏していた顔をあげた。 憔悴したその面差しが、緋色に色づけされてどこか悲壮な印象を与えた。 太一「な?」 机に水筒とサンドイッチの包みを置いた。 海水浴の残りだ。 一人分くらいはあった。 冬子がそれをじっと凝視する。 太一「ゆっくり食べないと、胃が受けつけないからな」 冬子「……食欲、ないのよ」 掠れた声。 太一「よしわかった、食べるんだ」 冬子「…………」 ゆっくりと手が伸びる。 包みをとき。 小さく、囓る。 太一「……ゆっくりな。水もあるから」 冬子「…………うっ」 口を押さえる。 太一「あ、平気か?」 冬子「平気だから、いいから」 振り払われる。 挙措は弱々しかったが、拒絶の意志は確かだった。 太一「……桐原ぁ」 気まずい空気。 冬子「これ、もらうわ」 太一「へ?」 冬子「家で食べるから」 太一「そう……なのか?」 冬子「……ええ」 冬子「ありがとう」 すんなりと礼の言葉を口にする。 太一「俺さ……日曜、部活に出ようと思うんだけど」 太一「よかったら、来るといいよ」 太一「SOS、出すんだ」 太一「たいして広範囲には届かないみたいだけど」 太一「指向性と帯域の調整はいくらでもできるから」 太一「それが、新しい部活なんだ」 太一「……悪くないだろ?」 冬子「……そうね」 少しだけ、冬子との悪関係を修復できた気がした。 太一「……うーむ」 夜は原稿書きだ。 いまいちはかどらない。 ありきたりな内容。 けど、とりあえずは進めておかないと。 太一「おもしろみに欠けるねぇ」 そうだ。 先輩に見てもらうか。 思い立ったが吉日。 すぐに家を出た。 先輩の家だ。 ノックをしてみるが、反応がない。 太一「せんぱーい!」 やはりレスポンスがない。 太一「あなたの太一が来ましたよー!」 シーン 留守かな。 太一「……」 まさか、まだ学校にいる? 太一「うわー、いるし!」 見里「わっ、ぺけくん?」 太一「無茶しすぎ!」 見里「ご、ごめんなさい」 太一「はー」 例によってというか、アンテナを組み立てていたようだ。 太一「こんな暗くて作業も何もないでしょーが」 見里「気になっちゃって……ダメですか?」 太一「ダメ」 太一「そんなことしてる暇があったら、原稿見てくださいよ」 見里「おや、もうできましたか?」 太一「途中です。でも意見聞きたくて」 見里「あー、でもこう暗いと……読めないですね」 太一「そですね」 太一「もういいですから帰りましょう」 見里「あ、でも……もうちょっと」 太一「みみ先輩……」 見里「だってぇ〜」 太一「焦って進めても、得るものはないんですよ」 見里「……」 太一「ゆっくりやればいいんです。違いますか?」 太一「時間はたっぷりあるんですから」 太一「それに急げば……それだけはやく終わってしまう」 太一「先輩、それに耐えられるんですか?」 見里「……っ」 泣きそうな顔。 背筋が痺れた。 つい、自分が禁忌を口走っていたことに気づく。 見里「……わたし、逃げてるんでしょうか」 太一「そですね」 見里「そう、見えちゃいますか?」 太一「見えちゃいます」 太一「作業に没頭することで、逃げてる」 アンテナを見あげる。 太一「無理矢理、仕事を作るようにして……わざと手間がかかるやり方で」 見里「……見抜かれてましたか」 太一「それが普通だと思ったんです」 見里「え?」 太一「先輩のしていることは、そうおかしなことじゃない」 太一「逃避をしたことのない人間なんていませんよ」 太一「けど先輩みたいに、必死に逃避しなければならないのは……つらいことだ」 太一「もちません、心は」 見里「…………」 太一「あなたは……30を越えているはずだ」 見里「…………」 太一「強度の自傷症状」 見里「…………」 無言という肯定。 俺はただ、言葉を重ねる。 太一「一人で作業するのはいい。けど追いつめられているなら……このまま単独で没頭するのは危険だ」 太一「……弾けたとき、ここが屋上だってことが、危険だ」 太一「わかってますか?」 見里「わかって、ますよ」 ぽつ、と言う。 太一「たいへん心配です」 先輩は眼鏡を外した。 涙ぐんだ瞳に、指の背を添える。 見里「ぺけくんに、心配されるくらい……不安定だったんですね、わたし」 太一「はは……その言い方は、失礼だなあ」 見里「あはは」 見里「君にこんなこと言われるなんてびっくりしました」 涙をぬぐう。 見里「……ありがとう」 太一「いいえ」 見里「だって……みんなバラバラで……このまま霧散するみたいで」 太一「俺は霧散してないですよ」 見里「だって、君はなんだか……動機が不純」 ばれてた。 太一「まあ」 見里「でも確かにわたし、意固地になっていたのかも」 太一「それに厳密には一人じゃないみたいですよ?」 見里「え?」 太一「これ」 先ほど、給水塔の下でひろった包みを見せる。 見里「差し入れ?」 太一「イエス」 太一「ただし中身はカレーパン」 見里「…………あ」 気づいて、口元を押さえる。 太一「あいつも最近、ちょっとナーバスみたいでなかなか顔見せないですけど、ね」 太一「あのバカ、自分の仲間が追い込まれるの、見てられない性格してますから」 太一「こんな傷みかけのカレーパン持ってきて」 見里「でもぺけくん、嬉しそう」 太一「食べます?」 先輩は小さくうなずいた。 二人で、カレーパンを食べた。 太一「……さてと」 まだ気温もそう高くない午前中。 一人屋上に来る。 早朝だ。 午後から、先輩もやってくるだろう。 太一「さて」 一足先に、作業に取りかかることにした。 とりあえず重労働。 重い荷物の搬送だけは、俺でもできた。 ……。 …………。 ………………。 機材を持って屋上に来る。 友貴と出くわした。 友貴「太一……か」 ぎょっとしている。 太一「部活に参加しに来たのか?」 友貴「……そんなわけ」 太一「先輩、気にしてるみたいだぞ」 友貴「え……?」 太一「そーとーストレスかかってるみたいだ」 太一「あれって、家庭の事情なんだろ?」 友貴「…………」 太一「一人で無茶してるのも、そのせいだ」 友貴「無茶って言うかさ……」 太一「逃避、かな?」 友貴「……」 厳めしい表情。 太一「……まあ、おまえたちの問題だと思うけど……正直、おまえの手が借りられないのはきつい」 友貴「……太一こそ。どうして手伝ってるんだか」 太一「だって、他にやることないじゃん」 太一「それに……こういうのって、俺たちには大切だと思うぞ」 機材を長テーブルに置く。 配線する必要がある。 太一「くそー、これがわからんのだ」 友貴「……なにしてんのさ」 太一「いや、こうやって作業進めておけばぺけくんすごいです大感動です濡れちゃいますブチューッ……みたいな」 友貴「ブチューはないだろう」 友貴「部活か」 太一「そうそう」 友貴は気怠げに地べたに座る。 友貴「ほれ」 太一「お、サンキュ」 缶ジュース。 あまり冷えてはいなかったけど。 友貴「……太一は、どうしてそんな熱心なん?」 太一「お、マジ質問青春風味」 友貴「わけワカメだよ」 太一「ちょー面白い、そのギャグ」 友貴「……どうして部活なん?」 太一「俺からも一つ、いいか」 真面目な顔で。 友貴「ん?」 太一「おまえと……姉さんに関わることだけど、いいか?」 友貴「…………」 太一「真面目な質問だ」 友貴「……OK。なに?」 太一「うん」 少しこわごわと、質問を押し出す。 太一「どうしておまえは関東の人間なのにたまに『〜なん?』とか『そうやん』とかのエセ関西弁をまじえるんだ?」 友貴「最高に姉貴と関係ない質問だよ!!」 友貴「帰る……」 太一「まーまー、待ちたまえよ。ロマンは一日にして成らずだ」 友貴「気を抜いてくれてありがとう太一くん」 太一「そうシニックになるな」 太一「つまりあれだよ。ほら、目的があった方が生き甲斐が出るだろ?」 友貴「……生き甲斐ね」 友貴「生きる糧があるならそういうのもいいけどさ」 太一「それにこういうの、憧れてたんだ」 友貴「こういうのって?」 太一「青春群像グラフティー」 太一「どんな味なんだと思うよ?」 友貴「いや、お茶じゃないから」 友貴は立ち上がり、アンテナの周囲をまわった。 友貴「それで……それだけで?」 太一「することがあるのはいいもんだ」 友貴「……あるじゃん。別に。物資探すとか、さ」 太一「少なくともこの部活は、希望がある」 友貴「絶望を確認することしかできないかもよ?」 太一「絶望を確認するという希望がある」 友貴「……わかんないよ、太一の考え」 太一「そーかー?」 友貴「どうしてそんな楽しそうなんだ」 太一「へっへ」 友貴「ほんと、信じられないね」 友貴は腕で目元をぬぐった。 友貴「僕にわかるのは……このアンテナとモービル用機材の結線だけだ」 太一「とっとと頼む」 友貴「なんだよー、もちょっとそれっぽく感動とかしろよー」 太一「ばか、内心泣いてるっての。号泣だっての。泣き感動路線だっての」 友貴「そうは見えない〜」 太一「男同士でジメジメしたって寒いだけだ、そーいうイベントは貴様のねーちゃんと起こすわい」 友貴「ひでー!」 太一「さあ、そうと決まったらとっとと働け! 放送予定日は明日じゃい」 友貴「へいへい」 友貴「じゃ機材、調達してくる」 友貴「……太一?」 校舎に戻る足を止め、友貴。 太一「ん?」 友貴「……てっきり姉貴と仲直りしろとか言うのかなって思ってた、姉貴を手伝えよ弟だろって」 太一「いや、姉弟喧嘩なんてごくまっとうな人生じゃん。止めんよ」 友貴「……」 太一「要するに俺様を手伝えということだ」 胸を張る。 友貴「……おまえ大物」 太一「適応係数80オーバーのオーバーロードですから」 友貴「……そのオーバーロードとも、これからも普通に友達してやるよ」 友貴「そういうの、嫌いじゃないから」 さっと校舎内に消えた。逃げるように。 太一「キライジャナイカラ……ププ!」 そう言った友貴は、一瞬で人類の限界まで赤面しきっていた。 太一「照れるくらいなら言うんじゃねーっての。まったく」 アンテナを見あげる。 太一「でも、これでちっとは進捗すんな」 楽しい部活ごっこ。 大切な思い出となりえる。 いつか、楽しい夢を見るための——— きっと。 ずっと。 ありがとうと、思うため。 俺は戦っているんだと思う。 そして、日曜日。 屋上。 すべての準備が整う。 ……はずだった。 アンテナは、破壊されていた。 太一「……」 一瞬、我が眼を疑った。 先輩があんなに一生懸命組み立てていたものが。 一瞬で。 すぐに思考の一部が、感情から離脱する。 冷静な思考に浸るために。 誰がやった? 世界には8人しかいない。 8人しか、いないのに。 太一「先輩!」 見里「…………」 彼女は破壊された尖塔の足下にいた。 太一「先輩?」 見里「……っ」 振り返る。 鋭く神経質な挙措。 肩に触れるはずだった手が空を切る。 見里「……ぺけ、くん」 押し出すように言った。 胸が軋んだ。 イントネーションにこめられた真意が、垣間見えたから。 友貴「太一!」 友貴「どうしたんだ、これ?」 桜庭「……」 連れだって、二人がきた。 太一「俺もさっぱり」 三人の視線が、先輩に向く。 見里「……私なわけないじゃないですか」 震える声が答えた。 見里「……自分で作って、自分で壊す人がいるわけないでしょう?」 太一「まあ」 そういう人もいたが。 人類が生存していた頃は。 いや? 先輩自身が壊した? 可能性はあるのか。 友貴「……姉貴、自分で壊したんじゃないのか?」 見里「え?」 友貴「完成したら、逃避先がなくなるから」 友貴「また自分で0に戻すために」 そう。 そういうこともあり得る。 特に先輩は。群青の人間だから。 友貴「逃げるために、逃げ道を作ったんだ」 見里「ちょっと待って。いくらなんでもそんな……」 鉄扉が開く。 会話が止まる。 冬子「……?」 冬子だった。 冬子「……げ、三馬鹿」 太一「……」 友貴「……」 桜庭「……」 反応がないのを奇異に感じたのか、冬子は近づいてきた。 太一「どうしてここに?」 冬子「支倉先輩が……話あるって矢文を……」 破壊されたアンテナを見あげる。 冬子「壊れた、の?」 太一「壊されたんだ」 太一「……誰かによって」 冬子「壊されたって……誰が?」 友貴「決まってる」 友貴「ここにいる誰かにだよ」 冬子の眉根が寄る。 冬子「それって」 太一「あまり愉快な話じゃないよな」 見里「そうですよ、愉快なわけない……自分で壊すなんて……ありえない……」 見里「絶対、違います」 ブツブツと呟きだす。 太一「このアンテナな、もとは放送部の活動用だったけど……救援信号を出すために使う予定だったんだよ」 冬子「え、そうなの?」 太一「そうでしょう、先輩?」 見里「……え、あ、そうです」 話を向けられて、少し戸惑う先輩。 見里「そういう意図もありました」 太一「それが先輩にとっての部活動だった」 太一「あながち逃避とも言えない。先があるからな」 友貴「…………」 太一「だから先輩のことを、俺は全然疑ってません」 見里「ぺけくん」 太一「あまり思い詰めないで」 見里「……ええ」 冬子「ちょっと、なにどさくさにまぎれて耳触ってるのよ!」 太一「こうすると落ち着くんだよ」 冬子「そういうのは恋人同士でやることでしょう!」 肩をすくめる。 太一「ふふふ、俺と先輩はいわば魂の恋人ソウルフルラブラバーなのだ」 桜庭「……」 友貴「……」 見里「……」 誰も笑わなかったし、ツッコミもなかった。 太一「…………」 寒い。 冬子に目線を送る。 太一(冬子)(冬子)(頼む!) 冬子「……え? なに? ウインクなんてしてどうしたの?」 超鈍かった。 太一「もういい!」 冬子「どうして怒られないといけないわけ……」 太一「OK、犯人捜しはもうやめだ! さってと皆の衆、こいつをチャチャッと修理すればSOSでヒューマンドラマだぞ!」 見里「……無理です」 太一「どうして!」 見里「必要な機材が燃やされています。修理はできません」 太一「燃やされてるって……」 足下の機材を指す。 見里「ガソリンっぽい臭いがします。かけて、燃やしたんです」 言葉がなかった。 そんな徹底してるとは。 太一「ま、まあ犯人なんて追求しても仕方ないなーっと」 見里「私は」 見里「犯人が誰か、知りたいですね」 太一「い……?」 見里「少なくとも私じゃない。だとすれば、あなたたちの誰かじゃないですか」 言葉は銃弾に似ている。 一度放てば、取り返しがきかない。 外れるか、傷つけるか。 だが見里先輩の言葉は、ことによく理解に届いた。 見里「あなたたちの誰かが裏切った」 優しいはずの眼鏡の先輩だった。 怒られることはあったけど。 告発されることはないと思っていた。 友貴「人を……裏切り者呼ばわりしてさぁ!」 唐突に友貴が叫ぶ。 友貴「あんたが、裏切りとか言うってことは———」 桜庭が動いた瞬間、友貴が倒れた。 桜庭「……」 殴った? 桜庭が友貴を? 太一「おいおいおいおい」 展開についていけない。 友貴「いてて、なにするん……」 桜庭「……どうして、壊した」 言葉は友貴に向けられていた。 友貴「……」 太一「壊したって言ったか?」 桜庭「どうして壊す必要があったんだ」 シリアスに桜庭は言う。 友貴「……何言ってんだ。知らないよ」 桜庭「俺は見た」 桜庭「おまえがアンテナを壊す瞬間を、見たんだ」 友貴「……」 見里「友貴、あなた……」 友貴「…………」 友貴の口元が、不自然に歪んだその瞬間。 再び、扉が開く。 音は甲高く、静寂に亀裂を入れた。 霧と美希だった。 そして。 霧は武装していた。 霧「動かないで!」 全員の動きが止まる。縫い止められた。 霧が手にするクロスボウ、そのこめられた矢によって。 霧「動けば撃ちます。これ玩具じゃありませんから」 その通りだ。 バックマスター社製・マックスポイントクロスボー。 オプションのコッキング装置がついている。 女性仕様といったところか。 とはいえ狩猟用の強力な武器。癖のない使用感。十二分な殺傷力。 おそらく誰かの家屋にあったものだろう。 にわか成金の多い街ならではの、無防備さで。 太一「……霧ちん」 霧「黒須太一は特に動くな!」 霧「わたしがもっとも、うっかり殺してしまいたい相手だから、あなたは」 冷笑する。 太一「…………ぉぃぉぃ」 冬子「ちょっと、どういうことなの? 全然わからない?」 冬子「佐倉もちょっと落ち着きなさいよ」 一歩踏み出しかけた冬子を、左に15度スライドしたボウの先端が制した。 霧「動かないでください」 冬子「ちょっと! 私は関係ないでしょ!」 霧「あるんです」 全員に向けて、霧は甲高い声を張り上げる。 霧「私たち、独立します」 独立? 桜庭「……つまり?」 霧「上見坂市の団地坂から、市役所までのライン……ここが私たちの領土ってことです」 太一「領土ぉ?」 霧「そこにある食料や水、衣類やその他の雑貨類も、当然こちら側のものってことです」 冬子「独り占めってこと!?」 霧「そうじゃありませんよ」 霧「食料品やその他の店は、設定した国境の反対側にも存在しますから」 霧「だいたい三割くらいです」 霧「妥当な取り分ですよ」 太一「妥当なのはわかった。けど理由は?」 問いかけに、鼻白む霧。 霧「あなたがたが信頼できないからです」 冬子「……」 霧「峰南町の向こう、坂井橋を越えた雑木林の中で……」 霧「死体がありました」 声なき衝撃が走る。 太一「死体……」 霧「老人の死体でした。詳しくは確認してません」 簡潔な説明で質問を封じて、霧はさらに続けた。 霧「犯人は……この中にいるとわたしは考えてます」 太一「突拍子もない話だな」 霧「あなたが一番疑わしい!」 俺にクロスボウが向く。 今にも矢が飛び出しそうだ。 霧「前科のあるあなたが……一番の容疑者なんですよ!」 桜庭「前科……?」 前科、か。 確かにそうだ。 霧「他の人だって、可能性はあります」 霧の隣、美希が小さく顔を伏せている。 発言する気配はない。 早く終わってほしいと、ただ願っているような。 太一「あー、きみたちの言い分はよくわかった」 太一「だが我々は同じグループの仲間であり、人類最後の生き残りで———」 霧の言葉が、切り裂いた。 霧「仲間だと思ったことは、一度たりともない」 シン、と屋上は冷え切った。 友貴「まあ、いい機会なんじゃないかな」 ひどく冷静な言葉。 友貴「どうせさ、何したってうまく行くはずもないんだし」 友貴「僕もこの人と仲良くなんて、考えたくもないし」 太一「アンテナ、壊したんだ?」 友貴「まあね」 友貴「姉貴が逃げるのが、許せなかった」 見里「……」 友貴「人の逃げ場を奪っておいて、自分だけ逃げるのかって」 友貴「人に厳しいなら、自分にも厳しくしないとな」 淡々とした言葉。 親しげに語りかけるようでもある。 友貴「独立。いいんじゃないかな、佐倉」 霧「……あなたたちは、信頼できない」 桜庭「それでいいのか、みんな?」 見里「……」 冬子「……」 友貴「……」 美希「……」 太一「……」 七人の平常。 失われたはずのもの。 友情の残骸でしかなかったそれも、今、完全に破壊されて。 決裂。ないしは断絶。 それは最初からあって、ただ、見えなかっただけなのだ。 友達の演技を、ひとりひとりがしていたのだとしたら。 違った。 こんなことを、夢想していたのではなかった。 俺がほんのりと期待していたのは。 違う。 こうじゃない。 断絶じゃない。 他愛ない部活動でよかった。 どこで間違えたのだろう。 そもそもにして、全てが壮大な間違いだったとも思える。 俺という存在。 群青という学校。 上見坂という街。 田崎商店という雑貨屋。 世界という全能。 太一「狂ってる」 俺は小さく呟いた。 黒いシルエットに支配される視界。 影法師たちが言い争っている。 終わらせたい。 すべて終わらせたい。 ざんし 残滓でしかない今でさえ、耐え難い苦痛だった。 人が滅んで、人との摩擦がなくなったと思った。 けどこの有様はどうだ。 八人だ。 たった八人で。 争い、憎しみあうのか。 そうか。 俺は真実を知った。 悟った。 ひとりじゃないと駄目なんだ。 複数ではいけない。 個でなければ、人は人のまま。 個。 個。 個。 個にするには? 目眩がした。 美希「……殺して、あいつを殺して!」 美希が叫ぶ。もうどうでもいい。 霧「美希?」 美希「はやく、はやくあいつを!」 美希「今殺さないと!」 ……どうでもいい。殺し合えばいい。 好きにしてくれ。 なんだったかな。 そう、優しい世界。 優しい世界だよ。 俺のような人間モドキでも生きていける、慈愛に満ちあふれた世界。 その実現。 ……どうやって? 決まっている。 動いているものを。 この眼で。 世界には動か静しかない。 動を静にする。 そういう思考が、確かにあった。 知らずに歩き始めていたのかも知れない。 *「*******」 誰かの声。 聞き取れない。 *「****!」 誰かさえわからない。 振り返ると。 がくん、と体が突き押された気分だった。 太一「……ん」 そうか。と思った。 妙に納得してしまった。 自分の胸を貫く、一本の矢。 そうか。 そうかそうか。 きっと俺は動いてしまったのだ。 そして霧に撃たれた。 実にわかりやすい。 **「*******っっっ!?」 誰だろう。 誰が心配してくれているのかな? 先輩かな。 冬子かな。 美希かな。 桜庭か友貴だったら……切ないなぁ。 すまん。俺死ぬわ。 桃園の誓い……守れなかった……。 って、もともと破っていたんだっけ。 ははは。 はははは。 笑いたくても声が出ない。 胸のあたりから、もやもやした圧迫感がこみあげてくる。 胸元を見ると、自分の吐いた血が足下まで濡らしていた。 こりゃ大事だ。 やばい、マジで死ぬ。 死にたくないなぁ。 すごくすごく生きたいぞ。 たくさんHなこともしたいし、テレビも見たいし、連載もののマンガだってちゃんと結末を見ておきたいし。 やだなぁ、死ぬの。 あー、でも俺ってヤングアダルト候補生だからなんか奇蹟の力で生き返るかな。 俺の亡骸に美少女がすがりついて涙を落とすと、その雫が触れた瞬間パーッと明るく輝いてたちまち蘇生したりするのだ。 感動だね。 じゃ、とりあえず死に際に何かギャグをかましてみようかな。 男としてそれは格好いいことだ。 喋れないし、身動きがほとんど取れないから……あまり派手なことはできない。 って、何もできねぇよ。 うわー、このまま死ぬのか! いやじゃー! 誰か俺の頭に金ダライを落としてくれーっ! 俺に笑いを、笑いをくれ! どわあ、血がひどいな! さっきより広がってるぞ。一面血だらけだ。 人間ひとりからこんな血が流れるのか……奥が深いな。 まっかだ。 色がわかるってことは、俺は俺のままなんだな。 ギリギリで『戻った』のか。 うむ。 いいことだ。 不意に、首から上の感覚が戻った。 一時的なものだろう。 ショック状態から各部の筋肉が回復しているんだ。 ……といっても、そんな保たないだろう。 もう意識がもうろうとしている。 呼吸も不自然に浅く細かい。 苦しささえわからない。 見あげた先。 赤はどこまでも広がっていた。 ……やると思った。 その瞬間、俺は死んだ。 CROSS†CHANNEL goto "1,「CROSS POINT(1周目)」"